京都芸術劇場 春秋座 studio21

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公演情報

公演名

沢木順ソロミュージカル
ロートレック
~歌い、踊る!モンマルトルの巨匠~

日時 2010年11月14日(日) 14:00開演(13:30開場)
会場 京都芸術劇場 春秋座
料金 【全席指定】
一般     4500円
シニア    4000円
学生&ユース 1000円
※ ユース=25歳以下対象
※ シニア、学生&ユース、瓜生山学園生は身証明書提示必要
※ シニア=60歳以上対象
チケット取扱い 【2010年8月3日(火)10:00発売開始】
□京都芸術劇場チケットセンター
 TEL:075-791-8240(平日10:00~17:00)
□京都芸術劇場オンラインチケットストア
チケット購入
□電子チケットぴあ
 TEL:0570-02-9999 (Pコード: 405-071)
□京都新聞文化センター
 (京都新聞社1F窓口のみ/10:00~17:00
 ※土・日・祝を除く)
 TEL:075-256-0007
□KBS京都事業部
 TEL:075-431-8300
 (10:00~17:00※土・日・祝除く)
□京都・滋賀各大学生協プレイガイド
□京都音協プレイガイド
 TEL:075-211-0261(10:00~18:30※日・祝日除く)
友の会特典 京都芸術劇場友の会 先行発売
2010年8月2日(月) 10:00
3500円 → 1000円お得!!


★ご入会についてはこちらをご覧ください
お問合せ 京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター
TEL: 075-791-8199
ソロミュージカル「YAKUMO」に続く沢木順ソロミュージカル第2弾!
19世紀末の退廃の中で、闇に照らし出された人々の心を描いたロートレックの生涯を
20数曲の素晴らしいメロディーに乗せて、時に激しく、時に甘く優しく描きます。
企画・原案
沢木順
構成・作詞
さらだたまこ
作曲
玉麻尚一
演出・脚色
毛利宣宏(少年社中)
出演
沢木順
演奏(ピアノ)
松川裕

「ロートレック~歌い、踊る!モンマルトルの巨匠~」とは?

1901年9月9日、37歳の人生を閉じた画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。幼い頃からの身体の障害に加え、アルコールと梅毒によって蝕まれた肉体と精神による激しい狂気の末の惨めな最期であった、と伝えられた。しかし、それは真実だろうか? 見た目は醜くとも心優しい芸術家の人生は、悦楽に彩られ、友情と母の愛情に支えられ、真に美しいものを追求し、世紀末の闇に照らされた人間の心を見事に描き続けた。世紀末をかくも激しくも己の心に忠実に生きた芸術家魂は、光が見えない混迷の時代に生きる私たちに、深い感動と勇気を与えてくれることでしょう。

19世紀末、芸術の世界に新しいエポックを築いた小さな巨匠の人生を、今までにない、独自のロートレック論も随所に交えながら、軽快でエスプリに富んだミュージカルで、ドラマチックに描きます。

あらすじ

舞台は、19世紀末のパリ・モンマルトル。世紀末のパリは、激動の時代。先が見えない混沌とした時代を覆う退廃ムードの中で、新しいうねりが起こっていた。そしてモンマルトルを中心とする芸術活動にも新しい風が吹いていた。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

モンマルトルにオープンした巨大エンターテイメント『ムーラン・ルージュ』のポスターで一躍注目を浴びた画家。

彼の作風は、古典的な伝統芸術を否定しながらも、同時代の印象派とも異なる独特のものゆえに、19世末を代表する画家として評価されている。しかし、彼が生きている間は印象派の画家達同様、権威的な美術界には正当な評価は得られなかった。

ロートレックは、フランスきっての名門伯爵家の嫡男に生まれたものの、生まれつきの虚弱体質で脚に障害を持ち、発育不全の小人症というハンデを持ったため、父親の望んだ立派な跡継ぎにはなれず、大衆文化に染まった画家の道を選んだため、ついに父とは心通わせることがなかった。

モンマルトルを芸術活動の拠点としたロートレックは、キャバレーの踊り子や歌手、そして娼婦といった女達を描き続けた。

ロートレックが好んでモデルにした女達は、不幸な生い立ち、社会的弱者、挫折、絶望を抱えた人生、というロートレックの心に寄り添う人々であった。

芸術のために放蕩生活を謳歌した彼の人生であったが、やがでアル中、神経障害、そして梅毒が彼の肉体を精神を蝕み、享年三十七という短い一生を閉じた。 激動の世紀末を生きた壮絶な生き様。だが、最後まで、彼は絵筆を離さなかった。

彼が最後まで、絵を描くことにこだわり執着した理由は!?

沢木順プロフィール

北海道真狩村生まれ、鎌倉育ち。早稲田大学で演劇を学び、卒業後東宝ミュージカル『ファンタスティックス』のオーディションに主役のマット役に抜擢されミュージカル人生が始まる。その後、『ラ・マンチャの男』他の出演を経て、1975年劇団四季に入団。以後、『ジーザス・クライスト=スーパースター』ユダ役、『コーラスライン』ボビー役、『キャッツ』ラムタムタガー役、『オペラ座の怪人』ファントム役、『ユタと不思議な仲間たち』『エビータ』他数多くのミュージカル舞台に立ち、退団後2004年には日本人で初めてのソロミュージカル『YAKUMO―小泉八雲外伝―』に挑戦した。ミュージカル以外にCD、コンサート等でも活躍中。

沢木順とソロミュージカル

劇団四季随一の歌唱力とパワーを誇り、退団後も常に新しい分野への挑戦を続ける沢木順が自ら企画し、自ら演じる。それが沢木順ソロミュージカル。

その第1弾『YAKUMO』は、ギリシャに生まれ、日本に魅せられて帰化した作家小泉八雲(本名 ラフカディオ・ハーン)を題材にしたミュージカル。 4歳からこの世を去るまでの八雲と、彼に関わった30人を超える人物を、ソプラノからアルトまで幅広い声域を使って、ひとりで演じ分ける究極のソロ・ミュージカルとして好評を得、現在もロングラン公演を続けている。

沢木順インタビュー

沢木順、公演への思いを熱く語る

劇団四季、東宝ミュージカルを経て
常に新しい分野への挑戦を続ける沢木順が
自ら企画し、自ら演じる。それが沢木順ソロミュージカル。
その熱い思いを語っていただきました。


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インタビューPart1
突然の主役デビュー
沢木さんは、東宝のミュージカルであるとか、劇団四季のミュージカルであるとか、お出になられていたと思うのですが、どんな作品でどんな役で出られていましたか。
沢木
まずデビューがですね、『ファンタスティック』っていうミュージカルだったんです。
日本ではじめてのオーディションシステムによるキャスティング。いまでこそオーディションは当たり前なんですけど、昔の日本はねオーディションなかったんですよ。で、受けたんですが、実は僕は受からなかったんです。僕は2位だったんですね。
ところが公演初日5日前に主役が降りちゃって、それで電話かかってきて、「沢木、やってくれ」って。僕、主役じゃないからあんまり一生懸命やってなくって(笑)、でも、歌は全部覚えてたの。それで、セリフを覚えて初日をやりました。ミュージカルのデビューとしては、珍しいですよね。
東宝から四季へ
沢木
けどその後、ずっと出来が悪すぎて(笑)、1年くらい干された後に『ラマンチャの男』とか、『マイフェアレディ』のフレディーとか、色々やらしてもらいました。
その後ですね、四季の方に行きましてね、浅利慶太に出会いまして、浅利慶太って、なかなかね、ステキな男でしてね、まあ、言ってみれば、惚れちまったんですよね。それで、浅利さんのとこで勉強したんです。
それまで、東宝でメインキャストやっている男が、四季で最初の作品は『ウエストサイド』のアンサンブル。だから、友達が見に来て「お前、どこにいるんだよ」って(笑)言われるくらいの役でしたね。でも、その後、だんだんいい役をもらえるようになりまして、最初のうちは四季でも脇なんですけれども、『ジーザス・クライスト スーパースター』っていう作品でユダの役をやらせてもらって、それから後、『エビータ』でチェ・ゲバラとか、『オペラ座の怪人』の怪人役とか、どんどんどんどん、いい役になってきましてね。で、役者っていうのは40過ぎて役が無くなってくるはずなのに、40過ぎたら急にぐいっときたんですよ。いや、嬉しいですね。
浅利さんに色々教えてもらったこと、それから菊田一夫先生に教えてもらったことが、今活かされていますね。
東宝にいたときも四季にいたときも、ぐぐっと上っていった、本当にいいときにいたんですよ。
インタビューPart2
フリーになって
四季を退団されて、フリーになられたわけですが、その後の活動についてお話いただけないでしょうか。
沢木
フリーになったときに思ったことは、ずっと今まである作品、外国のものを輸入してやってきた連続だったわけですよ。で、フリーになって、「よし!これからはオリジナルを作ろう!」と思って、それで、どうしたらいいかなと思って、僕の資金力とかそういうことを考えると、ソロミュージカルだなと思って、ソロミュージカルをはじめたんですね。 第1回目が『小泉八雲』をやって、で、今度2回目が『ロートレック』。で、これをずっと続けて、ソロミュージカルっていうジャンルを確立しようと思っているんです。
なぜ「ソロミュージカル」?
ミュージカルはそんなに歴史がないので、だんだんだんだん、年をとっていくと役が少なくなっていくんですね。でも、邦楽の世界は、年齢がいったときに、どんどんどんどん、芸が磨かれて良くなっていくんですよ。落語の世界も年をとればとるほど、いい役が来るわけですよ。いい仕事ができるわけですよ。で、ミュージカルはどうもそれがないと。
なぜか。それは一人で勝負できるものがないからだと思ったんです。ソロミュージカルは、子供から大人まで、男も女も、お婆さんもお爺さんも、全部演じ分けなきゃいけないわけですよ。そういう技術を持った俳優たちによる、新しいジャンルということでソロミュージカルを作って、そして年取った俳優たちがずっと舞台で活躍できるような場を作ろうと思ってね。
僕自身のためでもあるんだけど、僕だけのためじゃないんです。
だから、『小泉八雲』にしても『ロートレック』にしても、やりたい人がいたらすぐやらせます。だから、京都の大学の学生さんたちね、よく勉強している人たちが「もしかしたら、私、ミュージカルに向いているかしら」って「やりたい」って言ったら即台本を渡します。で、自由に使っていいです。
次なる「ソロミュージカル」
この後も、『ゴッホ』もミュージカル化して、それから『信長』のミュージカル化、それから『聖徳太子』のミュージカル化、最後は宗教的な哲学的なものをということで、『ブッタ』も手がけてみたいなと思っていて、あと4,5本は作っていこうかなと。まだ2作目ですけれどね。そういう男が私でございます。発展途上の、これから何とかがんばっていこうと思って、こういう男の作品を是非是非見ていただきたいと思っていますね。
インタビューPart3
沢木さんと父(=八洲秀章氏)のこと
沢木さんのお父様が作曲家の先生でいらっしゃって、たぶん、お父様の影響はかなり大きいんじゃないかなと思うのですが。
沢木
ものすごく大きいです。うちの父は、足が悪かったんですよ。10代で骨折して、大腿骨を折って、松葉杖の生活で、田舎ですからね、北海道の真狩村ですからね、じゃがいも農家で力仕事が出来ないということは、もう即駄目なんですね、田舎においては。まあ、言ってみればごく潰しみたいなことなんです。響きは悪いですけどね。そこで、ロートレックが足が悪くてつらい思いをしているのと同じように、小泉八雲が目を失明して「化け物」と言われたように、それと同じような偏見とかつらい目にうちの父があってますね。
父は、『あざみの歌』とか『さくら貝の歌』とか作曲して、なんとか世に認められたんですけれどもね。でも、うちの父を見ていると、曲を上手く出すっていうよりも、彼の人生が、こう波乱に満ちてて、苦しくてつらくて、また喜んでっていう、喜怒哀楽がすごい激しいんですね。もう充実した人生だったんですね。
その充実した色濃い人生の中からのメロディーだから、「♪山には山の愁いあり♪」って言ったときに、普通だったら「山には山の愁いあり」って言うくらいなんだけど、彼のはすごい山なんですね。愁いは愁いがすごい深いの。だから、「♪愁いあり♪」ってなるんですね。それから「♪麗しきさくら貝ひとつ♪」って言うときにも、彼にとってのさくら貝っていうのは普通じゃないイメージなんですよ。だから出来た。優れた芸術作品というのは、その大元にはすごい人生というのがあってはじめて生み出されるものだと思うんですね。
再現芸術家
だから、僕は自分で芸術家になれないっていう、なんかそういうコンプレックスがあって、それは父の影響がすごく大きかったんです。
僕が子供のとき、家族と一緒に出たテレビ番組のインタビューで、「お父さんはどんな人ですか」って聞くから、僕は「…○○○○です」って言っちゃったんです。尊敬の念を込めて。そういう、気が狂うくらいじゃないと作曲家になれないな、芸術家になれないなって思っているんですよ、僕は。僕、作曲もやるんですけど、それは趣味でやるんです。作曲家としてなんて怖くて出来ない。だから、以前作曲のコンクールで優勝したときに、「作曲家になりますか。そっちの方にいきますか」って言われて、「いや、僕はいきません」って言ったくらいですからね。
だから僕は、父の影響はすごく大きいんですけれども、父の持っているものの中から僕で再現ですね。再現芸術家。僕は再現芸術家でしかないなと。再現芸術家でいいなって思っているんです。
父は70で死んで、僕ももうあと何年かで70になってしまうんですけど、そこへ向かってギリギリね。だから、年間に1本ずつ作品を出していかないと、作ろうとしているソロミュージカルあと4・5本が間に合わないなっていう気がしているんですね。もうでも、次の作品も作家と一緒に書き始めてますよ。
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