マラルメ・プロジェクトIII
2010年にスタートした「マラルメ・プロジェクト」。
三年目となる今年は、2010年の『エロディアード―舞台』『半獣神』、
2011年の「『イジチュール』の夜」を踏まえ、
「『イジチュール』の夜へ―「エロディアード」/「半獣神」の舞台から」を上演します。
7月22日(日)の公演に先駆けて行われた
記者発表(渡邊守章・浅田彰・高谷史郎・白井剛・寺田みさこ)の様子をお伝えします。
― マラルメ・プロジェクトIII ―
2012年7月22日(日) 春秋座
企   画:浅田彰、渡邊守章
構成・演出:渡邊守章
朗   読:渡邊守章、浅田彰
音楽・音響:坂本龍一
映像・美術:高谷史郎
ダ ン ス:白井剛、寺田みさこ

マラルメ・プロジトII『イジチュール』の夜     
2011/8/14 京都芸術劇場 春秋座 撮影:清水俊洋

渡邊
最初はこんな大掛かりなことをやるつもりはなかったんですね。 というのも2年前の5月に筑摩書房から25年かけて『マラルメ全集』*1が出たのですが、私は散文と詩の重要な部分、マラルメの定型詩といわれる「マラルメ詩集」と「イジチュール」という未完の小話に関わっておりました。その時に浅田さんが「せっかく出版したのだからイベントをやったらどうでしょう」と言ってくだって、このような企画を催すことになりました。
 
今まで日本でマラルメの詩を音楽的、音響的、もっと即物的にいうと「音」として捕まえて来た人は私が知っている限りいません。しかしそれでは非常にマラルメに気の毒だ、裏切ることになる、と私は思っておりまして、それを早くから分かってくださっていたのが浅田さんなのです。 以前、私が東大を退職する時に「エロディアード―舞台」という詩篇を日本語とフランス語で読み、「声」が重要なのだということを提言して好評を得たのですが、それを浅田さんがご存知であった。そこでこのプロジェクトを行うにあたり、一度、坂本龍一さんに「半獣神の午後」と「エロディアード―舞台」をフランス語の朗読をお聞かせしたらどうだ、ということになりました。 自惚れているようですが、坂本さんは私が読むフランス語のマラルメに音楽的要素、音楽創造のきっかけを捕まえて下さったんでしょうね。フランス語の朗読の方がいいと言っていただいたのです。ただ、詩と音楽だけの舞台では禁欲的に過ぎますし、浅田さんと古くから友人であったダムタイプの映像作家・高谷さんに映像を依頼して1回目*2を行いました。

2010年 マラルメ・プロジェクトI 撮影:清水俊洋
 
舞台では私が真ん中に立って、「エロディアード―舞台」と「半獣神の午後」を読むだけ。それに坂本さんが即興的に音楽を付けて、高谷さんがデザインした映像で字幕を付ける。それがすごくキレイだったわけです。砂子みたいなものが字幕にもなるし絵にもなり、マラルメの好きな宇宙生成的な泡みたいなものが見えました。大変、評判が良かったので、2回目*3もやろうということになったのです。 2回目は「イジチュール」に挑戦しようということになりました。 マラルメは交響曲楽やオルガンなどの演奏会が好きで、同時にバレエも好きでした。しかしマラルメが見ていた当時のバレエは、作品としては非常にくだらないものだった。それでも「踊る身体」というのが一種の「象形文字」、意味のある形、文字の置き換えだと思ったのです。それでこのプロジェクトにもバレエを入れようと。前年にデュラスの『アガタ』という二人芝居をダンス入りバージョン*4で私が作った時に、白井さんと寺田さんに参加していただいたので、お二人にお願いしました。 最初お二人のダンスを言葉の演出家として、どうやって使うのかと思っていたんですね。普通、お二人のダンスには言葉が入っていませんから。言葉が入ってそれをダンスがなぞるのは愚の骨頂です。「言葉とダンスがパラレルで進んでお客の中で統合される」。言うのは優しいのですが、そういうのができるのかどうか。

2011年 マラルメ・プロジェクトII
『イジチュール』の夜 撮影:清水俊洋
 
今回はこれらの総括として上演します。私としてはマラルメという人が単に「文学論」とか「芸術論」とか思想的な面で観念的に持ち上げられているだけでは気の毒だと思うのです。マラルメは何より詩人。詩人である以上、詩を読んだ時に「感動できる詩」として、観客に受け取られるようでなければいけないし、そういうものとして翻訳を行わなくていけないだろう。そういう思いがあります。
浅田
30年以上前、ぼくが京都大学にいたとき、渡邊さんが集中講義に来られ、マラルメの草稿、とくにそれまでほとんど知られていなかったコラージュみたいな切り貼り帳の調査に基づく最新の研究成果を聞かせていただいた。それは従来のマラルメ像を一新するもので、たいへん刺激的でした。それ以後、渡邊さんが描き直されるマラルメ像に興味をもち、ここまできたというわけです。 従来、マラルメというのは密室に籠った秘教的な詩人で、その難解な純粋詩は、音読するというより、文字を読み解いていくべきものだとされていた。しかし実は、若き日のマラルメは舞台上演のための作品を書こうとし、ただ、それが書けないとか、劇場から拒否されるとかいうことで、密室に籠ったわけだし、そこで書いた作品の中にヴァーチュアルな形で演劇的なものが封じ込められているわけです。密室の孤高の詩人といっても、密室の中で、ページそのものが舞台となり、その上に言葉そのものがドラマとして立ち上がるヴィジョンを観ていたと言ってもいい。それをいまいかにして立ち上がらせるかという課題が、渡邊さんのお話から出てきたんですね。
 
実際にもマラルメは決して孤高の人ではなく、そのサロンには文学者のみならず画家や作曲家も集まっていた。今年生誕150年になるドビュッシーも来ていて「半獣神の午後」への前奏曲を書き、100年前にはそれをロシア・バレエ団のニジンスキーが振り付けて自ら踊った。そういう流れも意識しつつ、たんにマラルメに触発されたドビュッシーの曲を二ジンスキーが踊るというようなことではない、マラルメの詩そのものを同時にマルチメディア・パフォーマンスとして立ち上げることができないか、ということですね。
渡邊
その「コラージュ」についてですが、『詩と散文』と『パージュ』、それにドマン版『詩集』のための貼り付けのアルバムが保存されています。『詩集』について言えば、マラルメは生きている間は本が出なかったので、死の翌年にベルギーのドマンという出版社で出した350部限定の詩集1冊しかないという不思議な人です。
 
「コラージュ」というのは、アルバムのようなものに、以前、雑誌等に掲載した詩を張り付けていくんですね。それを赤で直していく。マラルメは字面というかページの中に置かれている詩の働き、単語の働きについて、ものすごく神経を使う人なのです。その一つの極が、「賽の一振り」なのです。 先ほど挙げた『詩と散文』は、マラルメ自身が編集したアンソロジーですが、その中に「聖務・典礼」という題のテクストがあります。これも文字通りの「コラージュ」なので、1973年にパリ大学の附属図書館でアンリ・モンドールのコレクションが寄贈され、その“貼り付け”を見ることが出来た。それまでこういう話は聞いたことがなかったので、すごくショックだったんです。それでマラルメにのめり込んでいったわけです。その頃、マラルメの散文の研究は進んでいたけれど、私はそのコラージュを見た最初の一人でした。 『詩と散文』の「聖務・典礼」の貼り付けは雑誌『エピステーメー』の宮川淳の追悼号で再現しました。それを見てくださると分かるのですが、4つ柱があって1番目は「韻文劇の朗読」。本を読んでも良いし、紙に書いたものを見て覚えてもいい。それから「バレエ」があり、ワーグナーに代表される「音楽劇」があり、最後に「カトリックの典礼」と「オルガン演奏会」があるという、4つの柱を想定しているわけですね。そういうコラージュで発想していった「未来のパフォーマンス」というのに近いものを作れたかなという気はしています。
浅田
1回目から参加してもらっている坂本龍一さんとは、昔から親交があったし、他方、マルチメディア・パフォーマンスをやっていたダムタイプとも交流があったので、そのメンバーで主に映像や照明や装置を担当していた高谷さんを坂本さんに紹介して、『LIFE』などで協働してもらったりもした。近年では、坂本さんが中心になって進めている音楽史の再検討の試み『Schola』でも、ドビュッシーやその周辺について一緒に考える機会があった。 そちらの方でも、ドビュッシーからマラルメに遡って、ある種のマルチメディア・パフォーマンスを考えるというのは、自然な流れだったんですね。 その二つの流れが2年前にマラルメ・プロジェクトで結合して、渡邊さんの朗読を坂本さんの音響と高谷さんの映像で彩った。昨年は白井さんと寺田さんのダンスも加わって、さらに立体的な形での上演を試みた――あくまでマルチメディア空間の中で言葉や音響や映像と反応しながら身体が動くということで、文字通りのマルチメディア・パフォーマンスが立ち上がったわけです。今回はそれらをブラッシュ・アップしつつ総合しようというわけですね。19世紀に劇場から拒否された詩人が密室の中で書いた秘教的な詩文の中にある、ある種の潜在的なドラマを、21世紀のマルチメディア・パフォーマンスとして立ち上げることができれば、たいへん面白いのではないかと思っています。
高谷
僕は最初、マラルメはすごく難解で研究者の人のためにあるような作家で、どちらかというと僕らが読んでも分からない、もちろん「賽の一振り」とかは読んだり、―読むというより見たり―はしていました。ですから、それを朗読して舞台の映像を作るということはどういうことなのかなと思っていました。
 
ですが渡邊先生が朗読されたのを聴いた時、本当に驚きました。僕はフランス語は分からないのに、すごく内容が分かると言うか、読むということは、こういうことなんだ、と感じました。それは声質とか渡邊先生のパーソナリティがあることだとは思うのですが、すごく頭に入ってきたんですね。それで面白いなと。そして次には読むだけでいいじゃないだろうか、聴くだけで世界が広がるのだから何か付けして壊してしまってはいけない、と思ったのです。でもその後、渡邊先生と何回かお会いして説明を聴いていると大変わかるんです。先生から「ここがポイントでここが折り返し地点で」と説明されると、すごく分った気になるんですね。これは面白いと。説明をうけたまま、文字が星屑のように砕け散っていく様子をそのまま映像にしていったという感じなんです。そしてピアノで弾くといくことは、どういうことなのかと坂本さんとメールでやりとりをして、1回目はあれよあれよという間に進んでいきました。 ですが2回目の「イジチュール」も読むと全然分からない。でも先生に説明していただくとなんとか分かった気になる。これを繰り返して舞台にしようと。 今年の作品で一番面白いなと思ったのは、レクチャーパフォーマンスになっているというか、ミーティングの時に僕たちに渡邊先生が説明するような感じで舞台が進んでいく。これがどう舞台に成り立っていくのか、展開していくのが楽しみです。
白井
さっき初めて舞台で試してみて「レクチャーパフォーマンスになっている!」と関心していました。渡邊先生の演出・翻訳の作品に参加するのは3回目なのですが、毎回、苦しめられます(笑)。でも段々、効率がよくなってきました。
 
身体で表現するのは、お芝居より抽象的な動きをすることが多くて、説明できるというか言語的な解釈を越えたところで身体が出てこないとダンスにならないのですね。マラルメの言葉をみていくと、言語ではあるけれど、身体性や現実をさらに飛び越えて行くようなところがあります。身体が進化していくようなところがあって、そこの交差点がどこにあるのか、という作業をやっているのかなと思います。
寺田
同じような話になるのですが、多分、客席にいると見えてくるもの、聞えてくるもの、感じるものの情報がものすごく多いだろうなと思います。人によっては、音に引き寄せられる時間があったり、ダンスに引き寄せられる時間があったり、映像の世界に入っていく時間があったりとか、そこをうまく泳いでいけると楽しいだろうなと思っています。そのバランスの中で舞台上でどのように身を置いていいのか、状態を保っているのがいいのか、というのがすごく難しく困難でもあり、面白いと思っています。
 
自分の感覚では客席にいると「生身の人の行為」と「言葉」が無意識的に結び付けるような働きが起こりやすいのではないかなと思っていて、そこを上手く使いながらも、集約しないようにして、全体のイメージや世界観に持っていけたらいいなと。今年は昨年より精度を上げられたらいいなと思います。
渡邊
寺田さんの「エロディアード」のパートは、ほとんど動かない。「あぁ能みたいだね」と浅田さんと言っていました。
浅田
昨年はプロローグで渡邊さんがマラルメの内的危機について説かれたわけですが、今年はそこに、演劇的な作品が書けないとか劇場から拒否されるとかいう具体的な危機の話を盛り込んで膨らませ、そのレクチャーの中に『エロディアード』や『半獣神の午後』のワークショップのようなものを入れて、レクチャー・パフォーマンスとも言うべき形式を試みます。そして、『イジチュール』をへて、最後にもういちど『半獣神の午後』に戻る。朗読を音響と映像が彩る形ですが、今年はさらに生身の身体を重ねて、いっそう立体的なパフォーマンスを目指そうとしています。
渡邊
マラルメを全く知らない人が観た時に、できるだけマラルメはこういう人だと分かるような枝葉は出しています。
浅田
春秋座は歌舞伎小屋として作られた劇場で、盆があるわけだけれど、高谷さんがそれを見て「ここにスクリーンを立てて回せば面白い」と。2枚のスクリーンが本になり、それが全体として回転する。無数の星屑が集まって詩句を織りなしてはまた四散していくかのような「字幕」が、そのスクリーンに映し出される。その旋回の中に身体が入って来るとどうなるのか。他では見ることのないユニークなマルチメディア・パフォーマンスになるでしょう。 舞台芸術研究センターの研究に基づき、春秋座で舞台を作り上げる。そこでも、歌舞伎座としての機能をまったく新しい形で駆使する。そういう意味で、これは大学の劇場で初めてできるパフォーマンスだと思います。 私も企画の一端を担っているので自画自賛はよくないのだけれど、率直に言って、これだけ尖端的で綿密な研究の裏付けをもち、これだけ多面的なパフォーマンスというのは、現時点で世界的にも数少ないのではないか。ぜひ注目していただきたいと思います。

本番は京都芸術劇場春秋座にて、 7月22日(日)16時開演です。どうぞお楽しみに!

*1 筑摩書房『マラルメ全集』 http://www.chikumashobo.co.jp/special/mallarme/ *2「マラルメ・プロジェクト」 2010年7月24日 京都芸術劇場 春秋座 第一部 松浦寿輝『吃水都市』を中心に 朗読:松浦寿輝・渡邊守章・浅田彰 第二部 ステファヌ・マラルメ『エロディアード―舞台』『半獣神の午後』 ―― 朗読に基づく実験的パフォーマンス 渡邊守章(朗読)・坂本龍一(音楽/音響)・高谷史郎(映像) 浅田彰(企画) *3「マラルメ・プロジェクトⅡ」朗読に基づく実験的パフォーマンス 『イジチュール』の夜 2011年8月14日京都芸術劇場 春秋座 企画:浅田彰、渡邊守章  構成・演出:渡邊守章 朗読:渡邊守章、浅田彰  音楽・音響:坂本龍一  映像・美術:高谷史郎 ダンス:白井剛、寺田みさこ *4 マルグリット・デュラス 作 『アガタ』―ダンスの臨界/語りの臨界― 2010年11月20日、21日 京都芸術劇場 春秋座  訳・構成・演出・語り:渡邊守章 / 振付・出演:白井剛、寺田みさこ 企画・製作:京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター / 共同製作:KYOTO EXPERIMENT