これを読めば淡路人形浄瑠璃に詳しくなれる
淡路人形浄瑠璃豆知識
淡路人形浄瑠璃の起源
国指定重要無形民俗文化財に指定されている淡路人形芝居の由来は諸説ありますが、鎌倉時代に大阪の四天王寺より、舞楽など神事を生業とする楽人が移り住み、その後西宮の戎神社に属したエビスカキから人形操りの人気が高かったため、神事を人形操りで行うようになったと考えられています。
江戸時代になると他の農村芝居などと異なり、一座を結成し西日本を中心に全国各地を巡る玄人集団が生まれました。彼らが伝承した演目には中央では早くに廃れたもの、淡路で改作・創作されたものも少なからずあり、最盛期の18世紀初めには40以上の座本が覇を競い、人形役者が千人もいたといわれます。
芝居は朝から、弁当は宵から
淡路の人々は昔から人形芝居が来ると前夜からご馳走を作って重箱に詰め、神社などの境内に掛けられた野掛けの舞台で日がな一日、人形芝居を見るのが何よりの娯楽だったといいます。浄瑠璃も盛んで島内の各地に稽古場があり、島の祭りで歌われる「だんじり唄」も浄瑠璃から派生したもの。地区ごとに得意の外題(げだい=書物や浄瑠璃、歌舞伎狂言の題)を歌い継いできました。しかし次第に新しい娯楽に人気を奪われ、日本各地の芸能にも見られるように淡路でも昭和30年代には急速にその姿を消していきました。
そうしたことを危惧する人々により保存運動が盛り上がり、昭和52年に淡路の1市10町によって財団法人淡路人形協会を設立。本格的な保存活動が行われるようになりました。
淡路人形浄瑠璃の特徴
文楽と同じく義太夫節による三人遣いの人形芝居です。ただ、淡路のかしらは文楽と比べてかなり大きく、明治中期から各座競って大型化し、大きい人形がダイナミックに動く時代物の演技が地方の観客の人気を集めました。また神事色を色濃く残しながらも、一方では早替わりなどケレン味に富んだ演出を追求しました。背景が次々と変わり、最後は千畳敷の大広間になる、目の錯覚を利用した「道具返し(襖からくり)」や、豪華な衣裳を何本もの竿に吊し、三味線に合わせて上下させて披露する「衣裳山」も淡路座独自の演出です。
- ――
- 淡路人形浄瑠璃の歴史を見ると、完全にではないにしても
昭和30年代を境に伝承が一旦途切れたようになっていますよね。
それを復活させることは、
なみなみならない大変なことだったのではと思うのですが。
- 千太郎
- まずは淡路人形の座が無くなってきたときに
「これを無くしたらアカン!」という先人がいたから
今のように観光と人形浄瑠璃をくっつけて
少しずつ持ち直していったんですね。
そういう思いを持ってくれていた人が
支えてくれたというのが大きな力ですね。
座も軌道に乗り、座員も増えて来ると、
外題(げだい=書物や浄瑠璃、歌舞伎狂言の題)を
増していこうということもあり、
この6、7年、本来の淡路の人形浄瑠璃の中でやっていた
淡路らしい演目を復活させようという流れになってきました。
今、文楽さんが人形浄瑠璃の中でトップにおる。
だからこそ文楽に無いものを、
どうやったら淡路人形浄瑠璃で出せるのか
浄瑠璃研究者の意見も聞きながら
かつての演目を復活させていただいています。
ただ、復活するにも初めてやるものですからね、
かなりお金も時間もかかります。
映像資料があるもの、音だけのもの、音と画像があるもの、
何も無いものと外題ごとにランクをつけて、
まずはどれを復活させるのか、ということからやっていきました。
その上で常時、公演に耐えられるもの、
作品として復活させて、淡路人形浄瑠璃のものとして
残していくものなどもありますし、
座員としてもすぐにできるもん、できないもんとあるんですね。
色々な人の協力があって、こういう復活公演が
できるようになってきました。
ただ観客がいないと復活しても上演できないので
今は淡路人形浄瑠璃ファンや観客を作ることも努力しています。
いくら自己満足で復活しても
やはり観ていただかないと意味がないですからね。
- ――
- 地域、地域にも昔から伝わっている伝統芸能や工芸がありますけれど、
やはり残していこうと思ってくれる人がいるというのは
大きいですよね。
- 千太郎
- そうですね。
- ――
- 最終的には継ぐものがいなくなって消えそうになった時、
地域の人たちが結局、何もしないで無くなってしまうものと、
残していこうと努力して残っていくものと、
2つに分かれる気がします。
今、地方の時代と言われていますが、
何をもって地方の時代なのかと思った時、
淡路人形座さんやそれを取り巻く人の活動が
何か指標になるのではないかなと思います。
- 史興
- 今の形があるのは、ある先生の存在があるんです。
昭和58年に合併により南淡路に南淡中学ができたのですが
淡路では既に三原高校にあった郷土芸能部を
新設の中学にも作りたいと
田端先生という方が郷土芸能部を作ったんです。
それが淡路人形浄瑠璃の普及に対して、
すごく足掛かりになったんだろうと思います。
ちなみに僕がその第四期生で、彼が一期生なんです。
- 新九朗
- はい。
- 千太郎
- うちは財団法人なので、後継者を育てていくことも大切にしています。
学校の部活で人形を揃えるというのは難しいので、
人形や衣装を全部作って持っていったこともあります。
後継者を育てて層を厚くすることに努力をしています。
一から田んぼを耕し、種を植えて・・・と、長い年月がかかりますが、
目先のことだけにとらわれず、こういう形でいっているのは、
「無くしてはならん」という気持ち、
「良いものだから残そう」と座員みんなが頑張っていたら
誰かが応援してくれた、というのもあります。
でも、そういう仕事ではない「思い」があったからこそ。
先生方もそうですが、割り切って単なる「仕事ですよ」って
言うのではなかったからですね。
- 史興
- 100年経って無くなったものは
100年かけて復活していかないといけないと思うのです。
今はまだ復活の段階だと思います。
この公演もそうですしね。
- ――
- 地域の想いが熱いんですね。
- 千太郎
- そうですね。最初にできた三原高校の郷土芸能部が今、60周年。
福井子供会人形浄瑠璃部という子ども会の人形浄瑠璃部が
40年ちょっとぐらいですかね。
そういう風に子ども会や小中高校の部活動、
青年グループなどがあり、それらが元となっていますね。
郷土芸能部の中学生のレベルもすごくて、
三味線を弾いて語りをして人形を遣って
東京や九州まで公演に行ったりしているんです。
三味線の技術ってなかなか習得しにくいんですよ。
中学や高校合同で三味線の連弾をするんですが、
余所の地域の人たちがびっくりしますもんね。
太棹を子供らがちゃんと弾けるといって。
今、学校でワークショップも開くと
「人形浄瑠璃ってカッコイイな」とか
「すごいな」とか思う子が増えてきて、
郷土芸能部に一学年10何人とか入るんですよね。
観る機会を増やすことで、ようやく少し芽が出だして、
人形浄瑠璃をやりたいという子が増えてきたところですね。
ただ、その子らが後に淡路人形座に入りたいと言ってきても、
毎回どうぞ来なさい、ということができないのですが、
何年かに1人とか2人とか入って来ますね。
- ――
- まずは地元の淡路にしっかりと目を向けて活動をすることが
大事だと考えられたのですね。
他地域・海外でもよく公演されているのですか?
- 千太郎
- 海外でも公演は打ちますけれどね。
初めは淡路のもんなら淡路人形を知っているだろうと思って
外へ出ていくことが多かったのですが、ふと気が付いた時に・・・
- 史興
- 地元はみな知らんぞと。これはヤバイ。というので、
地元の学校を回れる機会はないだろうかとみんなで話し合って、
まずは子供達に見てもらおうと小学校を回るようにしたんです。
- 千太郎
- よくお国自慢ってあるじゃないですか。
地元には、こんな滝がありますよ、こんな名所がありますよって。
なのに淡路の人間は淡路人形浄瑠璃を見たことがない。
こんなのでいいのかと思って、
学校を回らんと、という話になったんです。
- 史興
- 淡路島は南北に長いのでね、
北や中央の方にとっては余所のもんだ
という意識がどうしても働くんですね。
北の方の小学校では淡路に人形浄瑠璃があるって
全く知られていなかったんですね。
浄瑠璃自体も知られていなかった。
地元の人と話していても「人形浄瑠璃?」って言われるし
同級生には「おまえ浄瑠璃しようんの?何しよんのそれ?」って。
「え?お客さんら来るんけ?」ってそういう感じなんですね。
この認識度の低さはヤバイだろうって。
- 千太郎
- 今まで淡路人形浄瑠璃を見たことがあるのが
60代半ばぐらいの人しかいなかったんですね。
浜芝居とか、神社で野掛けの公演とか
昔は正月に家々の繁栄を願って
お家の神棚で三番叟を舞ったりしてね。
先生方の中にもちっちゃい頃、
人形が怖かったって思い出がある方がいるそうです。
とにかく、そのぐらい途切れているんですね。
- 史興
- 僕も福良(=ふくら 淡路人形座のある場所)で育ちましたが
ここに人形浄瑠璃の座があるなんて知らなかったんです。
毎日、自転車で座の前を遊んでいたんですよ。
遊んでいたけれど、そこで人形浄瑠璃をやっていたなんて
しかも人形浄瑠璃の存在自体知りませんでした。
- 千太郎
- 今は私たちが島内の各地へ行くことで
淡路人形浄瑠璃を観たことある子が増えてきました。
これが私の生まれたところのもんやでってなっていかんとね。
地元の方に淡路なら「これ」って言ってもらわんと嘘やなと思うので。
- 史興
- 今はありがたい話、公演をした後、福良の小学校の子が
座に遊びに来てくるようにもなりました。
- 千太郎
- 「いつでも遊びに来てくださいね。人形とふれあえますから」
って舞台で言ったら
「人形さわらせてくれ~」って本当に来てな(笑)。
「また来たでー」って次は仲間連れてきたりしてね。
- 史興
- 聞いたら中学の同級生の子供だったりしてね。
ほんまに来てくれて、嬉しかったですね。
エベスさんの人形を連れていったら中学生の女の子とか
「わーエベスさん、また来てくれたー!」って。
男の子なんかでも「あ!おっちゃんー」とかって
声かけてくれたりとかね。
そういう子達も少しずつ増えてきました。
- 千太郎
- 復活ものをやるより新作を作ったり
他のジャンルとコラボしたりした方がいいのでは、
という意見もありますが、
そういうものは本当の芸、レベルが上がった次のことで、
それをやるよりも地元にしっかり知ってもらえる方が
先じゃないか、という思いはあるんです。
芝居でも分かりやすいものもあれば、
重たい、内容の濃いものもある。
それらをどうやってもっていくか。
ただし本物の技芸を見に付けていかんとダメだなと思います。
俄か役者でパッと売れたって後で続かんのと同じで、
下積みを積んで行った人の方が息は長いしね。
そういう意味で足元を固めて、その上で
かみ砕いて楽しく人形浄瑠璃一本で楽しませるのは何かと
常に考えているのです。