寺内タケシさん
インタビュー
5歳でギターを始め、電話のコイルを並べたピックアップでエレキギターを製作。中学時代にバンド活動を開始、関東学院大学在学中よりプロとして活動。ミッキー・カーチスやジミー時田、いかりや長介らそうそうたるメンバーとバンドを組んだ後、エレキギターをメインにした「寺内タケシとブルージーンズ」を結成。
74歳になる現在でも、そのテクニックはパワフルでダイナミック、かつ繊細。映画音楽からクラシック、民謡とジャンル枠を超え、ギターの可能性を追求し続けている。中でも「津軽じょんがら節」に見られるような和物においては他の追随を許さない独自の世界を形成。今も我が国エレキのトップに君臨しています。
そんな寺内タケシさんに、旧知の仲であるプロデューサーの橘市郎が
お話を伺いました。

寺内タケシのナンバー(一部)

日本民謡のカバー

津軽じょんがら節(青森県) ノーエ節 おけさ節 斉太郎節 ソーラン節 元禄花見踊り さのさ 八木節 会津磐梯山 相馬盆唄 黒田節 木曽節 よさこい節 チャッキリ節 津軽あいや節 鹿児島おはら節 津軽タント節 お江戸日本橋 安来節 阿波踊り

クラシックのカバー

運命 未完成 (シューベルト「交響曲第7番」) 熊蜂の飛行 ハンガリア舞曲  ペルシャの市場にて 剣の舞 ツィゴイネルワイゼン 口笛吹きと犬 白鳥の湖 軍隊行進曲 ハンガリー舞曲 第5番

芸歴が長い寺内さんですから、 数々のエピソードがあると思いますが まだロシアがソ連だった頃、エリーナさんという白血病の少女が 寺内さんの演奏を聴きたいという手紙が寺内さんの元に届いて それをきっかけにソ連に行かれたエピソードがありますよね。
寺内
そう。ある日ね、ノーボスチ・ロシア通信社で カメラマンをしている方から手紙がきてね ―私の一人娘が白血病です。 いつ、亡くなるか分からない状態ですが、 私が日本の放送マンからもらったあなたのレコードを娘にあげたら、 「日本のにおいがする」っていうのです。 彼女が生きている間に、 一度でも寺内さんの音楽を生で聴かせてあげられたら、 親冥利として喜びですし、本人としても喜びでしょう。 って書いてある。 つまり、とりあえず私がソ連に行ったらいいんですよ。 そこでソ連大使館に行って「何とかしてほしい」と行ったの。 1か月半ほど待たされた末の答えが「ノーサンキュー」。 こっちは気持ちだけでソ連行こうとしていて、 お金などいらないっていうのに、「バカ野郎っ!」って 帰ってきちゃったんだよ。 そしたら、その後にNHKホールでやった僕のコンサートを ゴスコンツェルト(ソ連の国家音楽委員会)の総裁が 聞きに来ていたんだね。 急に親しげにして肩を組んできてさ、 「この間の話だが、ぜひ、ソ連に来てほしい」というから 「いつ頃行けばいいんだ?」って聞いたら「3年後」だって。 ようするに日本のスパンじゃないんだよね。広い国だから。 「そんなんじゃダメだよ。なんとかしないといけない」って 言っていたら、 そのエリーナの話題がロシアに広がってね。 その年、ブルガリアの国立舞踊団が国内で45回公演 やることになっていたのが、 テリーのためにチェンジしてもいいって言ってくれたの。 だから僕らは国立舞踊団の待遇でソ連に行くことになったんだよ。 それでソ連の空港に付いたらパトカーや白バイはいる、 沿道で人々は手を振っている。 「なんだこれ?」と聞いたら通訳の人が 「あなたのために来ているんだよ」って。 行く前に『いとしのエリーナ』という曲を作って 日本大使館経由でロシアに渡していたんだけれど、 それがソ連のチャートで一位になっていたんだね。
 
ソ連に行ったのは1976年。 すぐに、エリーナのいる病院に行ったらね、 その時の写真なんかもあるけれど、 ぼーっとしているの。エリーナ。呆然としちゃっているのね。 もちろん目は見えているのに、 こうして両手で俺の顔を手で触るんだよね。 そして自分のレコードのジャケットと見比べてね。 「テリーだ!」って。 俺も会ったら言おう、言おうと思って 紙に書いておいた言葉もあったんだけれど、 みんな忘れちゃったよね。
TERRY&BLUE JEANS 25TH ANNIVERSARY パンフレットより
 
次の日、7000人ぐらいのホールでコンサートをやったんだ。 白衣を着た人も沢山来て 「エリーナという白血病の少女のために作った曲が 『いとしのエリーナ』という曲で、 その曲が今一位になっています」って紹介されてさ。 演奏が終わったら、もう拍手が鳴りやまないの。 ザッザッザッザッって。全員スタンディングだよ。たった1曲で。 弱っちゃってね。 なんとか止ませないといけないし。 どうしようかなと思って、指を一本上げたら、 静かになっちゃった。それが静かにって合図なんだね。 それで 「僕たちはこういうわけで日本からやってきた。 国境があるから一番いけないことになるんだ。 こういう時はお互い様じゃないか。 少女のためにできることがあったら、やってやってくれ。 俺らはそういうメッセージをかかえてやってきた」 って。かっこいいだろ? 自分で言っていて、かっこいいと思うよ(笑)。 そんなことで行ってきたんですよね。 ソ連には3回行ったんだけれど、 最初に行った時の動員が35万人ぐらいかな。 コンサートは段々人気になってね。 最後、3回目はモスクワの体育館でやった時なんか 3万7000人も入るんだから。 そのあと、武道館でやった時、日本の小屋って こんなに小さいのかって思ったもんね。 それが3回目の時にね、ちょうどMiG-25が函館に飛んできてね。 ベレンコ中尉ってのが亡命してきちゃったんだよ。日本に。
MiG-25(ミグ25) 冷戦時代の1976年9月6日、 ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、 MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館市に着陸し、 亡命を求めた事件。
 
それは大変なんだ。モスクワでも日本人に戒厳令が出て 表へ出られなくなったんだよ。 それで僕らは日本人会やるから、会場を貸してくれって 言ったんだけれど、どうしても貸さない。 じゃあ茶話会をやりたいからっていったら 500人の警備をつけないとOKできないという。 まあ、それでやったんだけれどね。 当時、日本人が300人はいたのね。 子供が100人、ご婦人が100人。商社、大使館が100人。 コンサートの途中でね、 「子供たち、こっちへ来い」っていって呼んでね。 「今、日本ではこういう曲が流行っているんだ」って 『およげたいやきくん』を弾くと、 歌えない奴が半分以上いるんだ。日本に帰っていないからね。そ れを見て両親が泣くんだよ。 次に「お母さんこっちいらっしゃい」って、 ご婦人方にステージに上がってもらって、 多分、こっちが東だと思うから、母国を向いて ~うさぎ追いし、かの川…って『ふるさと』を歌ったんだ。 泣けるぞ。メロメロだよ。 次は「男、全部出て来いってい」って。 新聞社、商社、外交官だよね。 俺のリクエストでこれやりたいって、 ~やると思えば どこまでやるさ…って、 『人生劇場』をね、唄ったんだ。 みんな絶句だよね。最後に母国の方を向いて、 国歌斉唱だっていったら、500人警備の兵隊がいるだろ?  帽子を全部とったんだよ。
今までの中で、一番、大変な思いしたのはそれですか。
寺内
そうだね。そのベレンコ中尉ってのが、 MiG-25で亡命したかったのか、真偽のほどはわからないけれど、 当時は、すわ、戦争か!って空気だったよね。 僕ら「ブルージーンズ」のメンバーとスタッフ16人ぐらいで ソ連に行ったんだけれど、他の人は外へ出られるけれど、 僕だけダメなの。護衛がついちゃってVIPだから。 そのモスクワで茶話会をやる前にアルメニア共和国の 4万人ぐらいのスタジアムでコンサートをやったんだ。 で、ロシア語できる日本人を探してもらったら、 日本の商社の奥さんで、大学で日本語を教えている方がいてね、 「何にも言わないで、僕が言っていることを 通訳してくれないかって」こういうメッセージを言ったの。 僕たちは白血病の少女のためにやってきた。 2回目のコンサートでここでコンサートをします。 この間に函館にMiG‐25が飛んできた。 友好の深い国じゃないから、誤解があるけれど、 すわ、戦争だ、みたいな騒ぎになっている。 僕たちの父親、母親、おじいさんの時代、 恐らくあなた方もそうだと思います。 この間の戦争(第二次世界大戦)で、 日本人は600万人死んでいます。 ロシアの人達は2000万人死んでいます。 みんな第二次世界大戦の後に愛と平和を 願うものは立ち上がれといってVサインをして立ちあがった。 平和を愛する者、人間を愛する者は、 Vサインをかかげて立ち上がれ!! っていったら、ダーン!と立ち上がったんだよ。 ステージ前には危ないのがいたらすぐに捕まえられるように 銃を抱えた100人の兵隊が待機していたんだけれど 彼らは、ピストルやヘルメットを放り出して、 全員が胸に手をあててね。 カッコイイぞ。それでね 「ロシアの人々よ。これが日本人の答えだ」って。 次の日の新聞に「音楽で平和を勝ち取った」って書かれたんだよ。 その新聞、今でも取ってあるけれどね。 だから、本当にその気になって、死ぬ気になってやったら、 怖くもなんともないだよね。
モスクワのスポーツ宮殿での演奏を収録。 ライヴ・イン・モスクワSKA-177 LP (1977)

エレキギターのスタート

ところで寺内さんのお生まれは?
寺内
昭和14年生、茨城県の生まれでね。
5歳の時にエレキギターを自分で作られたという エピソードは有名な話ですが、というと、戦争まっただ中ですよね。
寺内

寺内タケシ母

鶴岡初茂(はつしげ)。 小唄と草紙庵流三味線の家元。

くじらの物差し

くじら尺の物差しのこと。竹製。

そう。戦争が終わったのが7歳の時。戦争中に作ったの。自分で。 うちのが小唄の家元だったの。 それで、三味線でギターを教えてくれっていうことになってさ。 昔の三味線っていうのは絹糸でしょ。ナイロンがないから。 スペイン製のギターは鉄線じゃない。 5歳のね、柔らかい手がぐしゃぐしゃよ。 もう。「痛い、痛い」って泣くでしょ?そうすると、 くじらの物差しでベーンって叩かれるんだよ。 痛いぞ。「泣く程つらければ、すぐやめろ」って。 でも、やりたいんですよ。で、「お願いします」ってお願いする。 そうすると、ぐしゃぐしゃになった指を塩の壺につけれられるの。 それから比べたら、その後の人生、どこぶつけても痛くないよ。
それらは、ただ単にお仕置きとかじゃなくて 消毒の意味もあるんですよね。
寺内
そのおふくろが死ぬ前にね、刀を一振り。 国宝級の銘の入った、さる刀と5寸のまな板。 これを母がくれてね、 「もし。迷った時、一瞬でも手を抜くようなことが合ったら、 まな板の上で指を切ってやめろ」って。 この話も刀も怖いけれど、5寸のまな板っていうのも怖いよね。
でも、基本的には「好きこそ物の上手なれ」で 嫌々やっていたら、とっくに止めていたでしょうね。
寺内

柳家三亀松(1901―1968)

都々逸、三味線漫談家、粋談師

そうですね。 そうそう、邦楽をやっていたのは母だけじゃなくて 柳家三亀松は、うちの伯父さんなんだよ。
え?三亀松さんがそうなんですか?  サラブレットというか、やはり血統が違うんですね。

ギターで唄う

寺内
歌っていうのは、唄うからいいんじゃないんだよね。 もう少しいくと唄い出すのかな? きたきたきたきたっていうのがいいのと思うんだよね。 僕らは歌がないからなおさらだね。
言葉がないのにね、祇園小唄なんかギターが歌うわけです。 言葉が歌うんじゃなくて情感が歌う。 そういう意味で今度のショ―は、ギターでいかに情感を伝えるか、 そういうところが聴き処ですね。
寺内
血統ですから。
歌手には、寺内さんのギターをぜひ、一度、聴いてほしいですね。