金梅子の仕事 山田せつ子インタビュー

山田せつ子(やまだ・せつこ)ダンサー

明治大學演劇学科在学中、笠井叡の主宰する舞踏研究所「天使館」に入館。独立後ソロダンスを中心に独自のダンスの世界を展開し、国内外での公演も多数行い、日本のコンテンポラリーダンスのさきがけとなる。1989年よりダンスカンパニー枇杷系を主宰。2000年より京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科教授として8年間ダンスの授業を持ち2009年より客員教授。最近の作品『奇妙な孤独』『ふたりいて』など。著書『速度ノ花』(五柳書院)。

金梅子(キム・メジャ)舞踊家・振付家

12歳からダンスを始め、韓国伝統舞踊のルーツをなす宮廷舞踊、仏教舞踊、民俗舞踊、シャーマニズム舞踊や伝統音楽などを修得する。伝統舞踊の踊り手としての実力とともに、60年代からの韓国舞踊革新運動の担い手として、韓国舞踊を基盤とした新しい舞踊の創造を始める。また当時舞踊学科の教授として在籍していた梨花女子大学を拠点に、舞踊の地位の向上や社会への浸透、教育の充実など多くの業績を残す。1976年、自身の主宰する創舞会(チャンムフェ)を設立。85年には韓国で初めてのダンスのための小劇場「ポスト」を開場し、以来毎年ダンスフェスティバルを主催する。日本では88年の第1回東京国際演劇祭で招聘公演を行う。同年ソウルオリンピック閉会式で「ゆく船」の舞踊振付を担当。93年には「ポスト」を会場に舞踊フェスティバルを開催し、大野一雄を筆頭に日本の舞踊家を広く韓国に紹介する。99年に日本の記録映画「伝説の舞姫崔承喜―金梅子が追う民族の心」に主演。数々の優れた作品を国内外で発表し、2000年には日本から山本安英賞や日韓文化交流基金賞を贈られるなど、海外でも高い評価を受けている。社団法人韓国舞踊研究会設立、初代理事長。現 中国・北京舞踊大学名誉教授。創舞会主宰、社団法人創舞芸術院理事長。 主な創作作品:「息」(1975)、「絹の道」(1977)、「舞・その神明」(1986)、「チュンボンⅠ」(1987)、「チュンボンII」(1989)、「空の目」(1999)、「沈清」(2001)、「氷の川」(2002)、「春香」(2002)、ワールドカップ閉幕記念オペラ 監修

マーゴット・フォンテーンの踊りなんかを観ているかのよう
バレエを観るように観る事ができると思います


金梅子(キム・メジャ)

金梅子さんとの出会いはどのようなものだったのですか?

李炳焄(イ・ビョンフン)さんという、日韓合同制作『その河をこえて、五月』で、2002年に平田オリザ(劇作家・演出家)さんと共同演出された方ですけど、その方が1985年に私のソロダンスビデオを見て、関心を持ってくださいました。それで、モダンダンス、バレエ、韓国伝統舞踊系の先生と色々考えた中で、たまたま当時、ソウルの新村(シンチョン)という場所で、「チャンム・チュムト」という小劇場を作られた金梅子さんにビデオを渡してくださったのが出会いのきっかけです。前年に舞踏家の大野一雄先生を招いてワークショップをなさっていました。「チャンム」というのはカンパニーの名前でもあり、漢字だと「創舞」です。

まだ韓国では日本文化が解禁になっていない頃ですから、すごい事だったなと思います。翌86年の10月に開催された韓国チャンムダンスフェスティバルに呼んでくださったんです。当時、私は金梅子さんがどんな方かも知らず、招いてくださったので衣装と音源を持ってとにかく韓国へ行ったという感じでした。

チャンム・チュムトという、その小さな劇場は、とっても良い雰囲気の劇場でしたが、到着するとテレビ局が来ていまして、金梅子さんがチャンム・ダンスカンパニーのメンバーの金英姫(キムヨンフィ)というダンサーと即興でセッションをしろとおっしゃる。それをテレビで流すと。

いきなりですね…。せつ子先生と金梅子さんのお弟子さんの金英姫さんと…。

突然でびっくりしましたが、とりあえず急いでホテルに帰り衣装を持って劇場に戻ってきました。あまりにあっけらかんとおっしゃったので、私もその流れにすっと入ってしまったのです。金英姫さんは今、梨花女子大の舞踊科の教授をなさっていますが。それで2人でセッションしたら、とても楽しかったんです。ダンスの方法もまったく違うダンサー同士のいきなりの出会いでしたが、違和感なくのびのびできました。金梅子さんは何も注文もつけず、ただ、うなずいて見てらして、韓国との初めての出会いでもあり、不思議な始まりでした。

翌日は私の公演があり、金梅子さんから「踊りにオリジナリティがある。これからは、本当にオリジナリティのあるダンサーが生まれてこなくてはいけない時期だ」と言っていただいて、私自身が自分のダンスのあり方に揺れていた頃でしたので、とても励まされました。その頃チャンム・チュムトでどんなことをやっていたかというと、詩人、美術家、音楽家、舞踊家がほとんど毎日実験的な作業をして、公演をしていました。

本当に実験劇場ですね。

詩人が来て詩を朗読して、隣で舞踊家が踊る。モダンダンスのダンサーも参加すれば、チャンム・ダンスカンパニーのメンバーも踊る。韓国は演劇の方も随分踊られますが、演劇の方も参加する。美術家とのコラボレーションや音楽家とのセッションもある。あの頃、そこで随分、若い人たちは切磋琢磨したんじゃないでしょうか。私はそれから継続して招いていただいたんですが、当時公演を見てくれていた若い方たちが、今、中堅になって韓国の舞踊の場所で仕事をしています。そういった方々に「あの頃の舞台に刺激を受けた」と言っていただくことがありますが、当時、そういう実験劇場はチャンム・チュムトしかなかったんでじゃないでしょうか。やっぱり先駆者でいらしたのだと思います。

その後、金梅子さんから日本の他の舞踊家も紹介するようにということで、私の師である笠井叡さんが、ちょうどオイリュトミー(ルドルフ・シュタイナーにより創造された舞踊芸術)を学んでドイツから帰られていたので、翌年行っていただきました。笠井叡さんのオイリュトミー公演とシュタイナーの翻訳をなさり、研究者でもある高橋巌先生のシンポジウムもその時企画されました。

それも1980年代のことですか?

ええ、87年ですね。翌年には日本舞踊で独自のスタイルを作られていた花柳面さんも踊られましたし、その後にはチャンムアートセンターという形で劇場も大きくなり、『舞踏フェステイバルイン・ソウル』というものも開かれました。大野先生はじめ、日本の舞踏家が連日踊り、満員の観客が訪れるという嬉しいこともありました。先日亡くなった照明家の相川正明さんも一緒に行って公演をしていましたから、スタッフ同士の交流も生まれ、劇団「木花」の演出家・呉泰錫(オ・テソク)さんと相川さんはその後ずっと一緒に仕事をしてこられたようです。

この劇場では、もちろん、日本だけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカからたくさんの舞踊家たちを招き、公演がされていました。

でも、そんな時代にみなさん呼べましたね。

本当にすごいことだったと思います。ご自分の舞台を続けながら、同時に次世代に場を提供して、開いていく。これは大変なことだったと思います。金梅子さんの影響を受けた人はたくさんいるでしょうし、育った舞踊家は韓国各地でそれぞれ舞踊を続けている。そういう意味でも本当に時代を切り開いた人のひとりではないでしょうか。

金梅子さんは伝統舞踊というより、コンテンポラリーという部類に入るのですか?

金梅子さんの言葉では「現代韓国舞踊」と言われますね。韓国の伝統舞踊の技法を使って現代的な創作を行うダンスということでしょうか。金梅子さんが創作を始められた頃はコンテンポラリーという呼び方もなかった時代でしょうし。

現代韓国舞踊という名前がぴったりな気がしますね。温故知新・・・。

そうですね。伝統的なものをとても洗練された形で踊られます。

肩が上下して手がしなって、手の動きもきれいですね。

韓国舞踊独自の動きですよね。金梅子さんから伺ったんですが、やはり韓国の伝統的な思想から生まれてきたもののようです。韓国の家の屋根の先がみんな上に丸く向かっているでしょ? 手の先も、足先も上を向き、靴も先が上に向かっているんです。それは循環をイメージしているんだそうです。
屋根の先が天を回って、地上に戻る。全部、球体として循環するという思想があるというふうに聞きました。

金梅子さんとしては、そういった伝統舞踊のスピリッツというか型をきちっと守りつつも自分の…、

それは絶対、守りたいんでしょうね。音楽や美術などそこに現代性を入れるんですけれど、でもその伝統舞踊のテクニックだけは絶対捨てない。

初めて金梅子さんの作品をご覧になったのはいつだったのですか?

1986年に呼んでいただいたフェステイバルのなかで『サルプリ』を拝見しました。本当にびっくりしました。
すごーく静かで、無駄がなくて、精神性があって、バレエを見ているみたいでした。バレエの『瀕死の白鳥』を見ているみたいだった。踊りに媚びが無いんですね。マーゴット・フォンテ—ンのバレエなんか見ているように、すごく抽象化されていて…。


「サルプリ」舞台写真

あと、韓国の踊りを支える伝統音楽にもすごく魅せられました。生の音の深さとダンスが出会っていくようで。私は、韓国の舞踊を見る時の楽しみの一つは生演奏の音楽ですね。

楽器はどのようなものを使うのでしょうか。

いろいろあると思いますが、チャンゴという鼓型の太鼓とケンガリ(鉦)、ジン(銅鑼)、あとプックという丸い太鼓もありますよ。あとカヤグムといって小さい琴も使うし、ピリっていう笛もあります。歌もありますしね。


「舞、その神明」舞台写真

さて、今回の見どころについて演目解説も含めてお願いします。

金梅子さんは幾度も日本で公演されていて、2005年にびわ湖ホールで上演された『沈清』はスペクタクルな演目でした。今回は別の角度からシンプルに金梅子先生の仕事を検証するような舞台ですね。
「サルプリ」ですが、伺う所によると「サルプリ」は修練された方によって色々なサルプリというのがあるらしいです。各先生によって代々受け継がれていると。ソロで踊られるのがほとんどですが、


「サルプリ」舞台写真

この作品は金梅子さんがソロを踊られ、群舞も入るということで楽しみにしています。

「チュンボムII」 これは、本来ソロで作られた作品で、「チュン」とは舞踊、「ボム」とは素や原点という意味です。今回は音楽もバッハだそうですね。この作品を創られた動機は、韓国舞踊を成立させている思想と技法を捉えるというものだったようです。韓国舞踊がどういう成り立ちをしているのか、体の使い方、舞踊思想、そういうものを丁寧に編むことを作品化するということを考えられたのがソロの「チュンボムI」、その後、「チュンボムII」に発展したそうです。韓国の舞踊への金梅子さんの思いがたくさん入っている作品だと聞いています。


「チュンボムII」舞台写真

「舞、その神明」 韓国語で「チュム シンミョン」と言いますけれども、何度見ても楽しい作品です。韓国ではマダンといって広場の伝統があるのですが、そこにみんなが集まってきて、踊って歌って、男女の掛け合いもあって、楽器鳴らしてっていうようなことを連想させる作品です。男女や、女性の3人組みというのもあるし、どんどん出てきて即興で踊るという楽しいものです。面白いですね。いわゆる民衆の踊りにヒントを得たものではないでしょうか。
そしてここでは楽器が入ります。韓国の場合は本当に舞踊と音楽は切り離せません。生の演奏があって、生の体があって、ぶつかり合って、お互いが掛け合って、互いの呼吸で生み出すというような、すごく基本的なことだと思うんですけれども、それがこの作品で見られると思います。


「舞、その神明」舞台写真

「光」 これは奈良で平城遷都1300年を記念して特別公演されたもので、日本を代表するパーカッショニストの土取利行さん、ピーター・ブルックのところでずっと共同作業を続けられた方なのですが、お二人の共演からはじまった作品です。その後、岡山で野外公演もあったそうですが、素晴らしかったと聞いています。今回はベテランダンサー3人も一緒に踊られるそうです。即興性が強い作品だったそうですが、今回はどのぐらい即興が入るか分かりませんが、韓国舞踊はかなりゆるみのある舞踊というか、即興性を取入れますね。


「光」舞台写真

かなりヴァリエーションのある内容ですね。

そうですね。金梅子さんご自身でこのプログラムを選ばれましたが、ご自分の仕事を俯瞰するような作品の組みたてになっていると思います。

一般的にイメージされる韓国舞踊とはまた大分違って、

もう少し抽象化されているということかもしれません。

そうですね。

バレエを見に行くように見られると思いますよ。

美しいものを鑑賞するように。

そうですね。それはすごくあるかな、バレエとかモダンダンスの公演を見に行くような感じで見にいらしたらいいんじゃないかな。いわゆる韓国舞踊の土着的気配の強いものとはちょっと違うかもしれない。もちろん民俗的なものは、きちっと入っているわけですけれども、ヨーロッパでバレエがどんどん洗練されていったようなことをイメージしていただくと少しいいかもしれない。そういう意味でフォークロアがここまでのダンスになる過程というのを感じていただけるかと思います。