加藤登紀子さんに聞く「ピアフと私」

2つの戦争を生き抜き、 パリから世界へ躍り出た劇的な成功の影で いくつもの愛と別れ、 非情な運命と戦った シャンソンの女王エディット・ピアフ。 ドイツ出身で、その後アメリカに渡り 大女優となったマレーネ・デートリヒ。 デートリヒとピアフは深い親交を結び ピアフが亡くなるまでデートリヒは 精神的に彼女を支えました。 このピアフとデートリヒを繋ぐストーリーを 加藤登紀子が時にデートリヒとなり、 時にピアフとなって 語り、演じ、歌います。

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第3幕 登紀子さんの少女時代と京都のこと

日本での人生のスタート

うちの両親が京都の人ですからね。 私と京都との縁は強いです。 私はハルビンで生まれているんだけれど、 2歳8ヶ月で引き上げて 佐世保から貨物列車に乗って京都駅に着きました。 それが、私の日本での人生のスタートですね。 駅に着いた私の母は、五条の実家まで 私をおんぶして走ったって言っていました。 そしたら、うちのおじいちゃんが 「生きとったんか!」って驚いたんですって(笑)。 「死んだもんやと思ってあきらめとった」って。 それで、おじいちゃんが駅で待っていた兄と姉を 自転車で迎えに行って。 そんなわけで京都に一旦、落ち着くわけですけれど、 翌年、父が復員したのを機に東京に引っ越します。 父がキングレコードで 音楽関係の仕事に就いたんですけれど、 ちょっと、うまくいかないこともあったみたいで。 例えば美空ひばりさんを オーディションで落としたとか(笑)。 これ、父の生涯の悔恨なんです。 そんなこんなで父が会社を辞めて、 もう一回、京都に戻るんです。 そして上賀茂に落ち着きました。

この小学校に入る前から中学一年生の時期まで 上賀茂で暮らしたというのが、 私の最高の子供時代の思い出。 やっぱりすばらしい環境だったと思いますね。 鴨川でも泳いだし、 上賀茂神社の前に住んでいたので、 神社の中でも泳ぎました。 今でもあの辺りは自然が多くて 変わっていないですよね。 あの時は終戦後だったから、 山に木が少なかったですけれど、 今は緑いっぱいの山になっています。 そのぐらいの違いでほとんど変わっていない。 いつでも、あそこに行くとほっとしますね。 それから御薗橋から見える比叡山がすごく好きです。 いいところですね。

うちの母は大陸で子どもを産んで、 戦争も経験している。 異国で誰も守ってくれる人がいない状況の中で 生き延びてきているから、すごく自立心が強い。 人と人が向き合って、どうやって相手を信頼し合い、 信頼されて生き延びていくかっていうことを 常に私に話してくれていました。 私の誕生日がデートリヒと 同じというのは言ったけれど 同時にピアフが母と同い年なんです。 ピアフの人生を紐解くと、 母の人生と同じような感じでダブってきますよね。 大変な時代を生き延びた女の人の姿として、 重なりますね。 それに、うちの母は満州が好きでね。 向こうでは洋裁をしていたんですよね。 それなりに稼ぎもあったから、 戦争が終わった時に、満州に残って このまま暮らしちゃおうかなって思ったみたい。 そんな母でも、やっぱり京都に帰ってきたからには、 「京都で生きられる人にならないといけない。 あなたは襖の開け方ができていない。 京都では、そういうことが駄目なのよ。 京都では、できなければいけないことがあるのよ」って、 小学生になるとお茶を習いに行かされました。 先生は母の妹で、私にとっておばさんだったから、 私、そこに行くと 甘いお菓子が食べられるのがうれしかった(笑)。

それから私、小っちゃくてね、運動神経が悪くて、 体育が最もできない子供だったんですよ。 それで2年生の時にバレエを始めたの。 3年生の時には音楽の点が悪いっていうことで、 歌を習いにいったりしてね。 「人生はね、算数、国語なんてどうでもいい。 音楽、体育、図工なのよ。 音楽、体育、図工ができなかったら 人生真っ暗なのよ」 って、母は言っていましたけれど。 でも、うちは当時、本当に貧乏だったと思うから、 ありがたかったなと思います。

私とピアフ

ピアフが亡くなったのは私が20歳になる年。 亡くなったことで、様々な所で取り上げられたので 色々な伝説が聞こえてきてね。 私、ちょうど大人になるっていう 気持ちの時だったから、 すごく刺激を受けたんですよ。 そして父が私をシャンソンコンクールに 申し込んだのが、その翌年。 ピアフが死んだ翌年に 1回目のコンクールがあったんですよ。 その時に、シャンソンコンクールというのなら ピアフを歌わなきゃ! って思ったんです。 選んだのは、『Mea culpa』っていう曲。 どうしてこの曲をって? 当時、この曲がピアフの歌だって 全く知らなかったの。 ただ、ガスライターのコマーシャルで流れていてね、 ムード歌謡みたいな感じで聞こえていたんだけれど、 調べてみたらピアフの歌だったわけ。 それがすごい内容で、恋をしたら どんな罪だって犯してしまえるのよっていう、 すごく激しい歌なのね。 20歳の私はびっくりしちゃって。 こんなにすごい歌詞の歌を、ムードムードした歌に しちゃっているって、びっくりだよね。 結果は4位になっちゃったんだけれど、 その時の審査員に 「まだ、あなた子供の顔をしているから、 こんなピアフのすごい歌を歌っても駄目よ」って 笑われちゃったんですよね。

さっきね、古い楽譜の棚を調べていたら、 『Mea culpa』の楽譜を見つけたんだけれど そこに20歳の私が書いた書き込みがあるの。 辞書をひっぱって分かんない単語を調べて 少しでも意味を分かりたいって 書き込んだのが出てきて 懐かしいなって。キュンってするね。 今度の舞台では、この『Mea culpa』を 日本語の訳詞をつけて歌います。 私、来年の秋から歌手デビュー50周年なんです。 だから今年は、別の意味で加藤登紀子50年分の 全体像を広げたいな、というのがテーマなの。 このピアフの物語は去年からこだわって作ってきて やっと、こうして出来てきたので どこかで形にしたいなと思っていたところ、 春秋座でできることになりました。 そして来年はピアフ生誕100年。 だから多分、今年は、このピアフの演目は 春秋座でしかやらないと思いますが、 再来年はいろんなところで 演じてみたいと思っています。 その出発点の重要なステージが春秋座です。 皆様、ぜひ、いらしてください。

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