サミュエル・ベケット「しあわせな日々」京都公演に向けて
ARICA演出家の藤田康城と女優 安藤朋子に
サミュエル・ベケットとの出会いから
太田省吾「水の駅」の体験について、
そしてARICAの作品作りを
森山直人がインタビューをしました!
ARICA演出・藤田康城さん、女優・安藤朋子インタビュー
聞き手:森山直人(京都造形芸術大学舞台芸術学科教授)
- 森山
- 『しあわせな日々』昨年も上演されたもの
ARICAは2001年に結成されたのでしたね。
藤田さんは昔からベケットに関心があったとお聞きしています。
初めて出会ったときは、どんな感じだったんでしょうか?
- 藤田
- 父が俳優座という新劇団に
後援会の役員というかたちで関わっていたんです。
それでいろいろな劇団の招待券も手に入ったようで、
行ってみるかと誘われたんです。
小学校の高学年だったんですが、
最初にみた芝居が東野英治郎主演の『検察官』(ゴーゴリ作)、
次が『どん底』(ゴーリキー作)で仲代達矢が主演でした。
それを立て続けに観て
大の大人が人生とはなにかとか一生懸命にやっていて
すごく面白かったんですよ。
わからないなりに、なにか本だけの物語ではない
生々しい別の世界が舞台上にあるということを身に感じた。
それから、文学座、民藝、青年座、と
毎週末、父に連れられて何か観に行くようになったんですね。
- 安藤
- 抽象度の高い作品を手がけている人が
そこまで新劇を観ているというのは、めずらしいですよね。
- 藤田
- 当時は、杉村春子に太地喜和子、滝沢修、仲代達矢・・・
やっぱり新劇に力があったし、いい俳優を見ていたんですよ。
六本木の俳優座劇場は一度改築していますが、
建て直す前がすごく雰囲気のある劇場で好きだった。
また、文学座には文学座アトリエっていう
木造の素敵な建物がいまでもあります。
そのアトリエ公演で、あるとき別役実の舞台を見たんです。
それが今まで見たものとは違う
“あれ”とか“それ”とか
何を指しているのかわからない指示語だけが
どんどん先行していく不思議な芝居だった。
煙に巻かれているような舞台なんだけど
でも、最終的になにかしらの深い切なさのようなものがある。
それで、別役実について本を読み始めていたときに
サミュエル・ベケットのことを知ったんです。
学校の図書館で『ベケット戯曲全集』(白水社)を
借りたのが初めてですね。
- 森山
- まずは上演ではなく書籍から・・・。
- 藤田
- 当時ベケットの上演を東京で観る事が非常に難しく
文学座は1965年に、『しあわせな日々』を上演していますが
の頃はあまりやられていなかった。80年代の始めに、
星セント・ルイスという漫才師が久々に
『ゴドーを待ちながら』をやるというので
話題になるぐらい珍しかった。
- 森山
- セント・ルイスの上演の劇評は読んだことがありますが
そんなに話題になっていたんですね。
- 藤田
- そんなわけで、書物でしか触れようがなかったわけです。
ベケットは、ともかく何も起こらない。
別役の場合は、一応何かしらの展開はあって
曖昧だけど結論めいたものはある。
でもベケットはそれすらない。
これはなんなんだろうなと、面白かったんですよ。
- 森山
- 最初にみたベケットの上演は覚えていらっしゃいますか?
- 藤田
- この間、早稲田大学演劇博物館で
「ベケット展」をやっていたんですが
そこで展示されていた上演記録を見ると
たしか90年代半ばに
蜷川幸雄が江守徹たちとやったのはみているし
それ以降はよく上演されるようになって
結構みているんだと思います。
- 森山
- 印象に残っているものはありますか?
- 藤田
- それがあまりないんですよ(笑)
だからやろうと思ったんです。
本で読んだら面白いんですよ、僕にとっては。
それで、いつだったか、ベケットについての
シンポジウムがあった時に
ビリー・ホワイトロー主演の『ロッカバイ』とか
彼がつくった映像作品を上映するようなものをいくつか観て
そっちのほうがありかもしれないと思ったんです。
来日したピーター・ブルック演出の『しあわせな日々』は
とてもよく出来ていると思いますが
すごく感銘を受けたとまではいかなかった――
普通の舞台だなと思った。
- 森山
- ピーター・ブルックの奥さんのナターシャ・パリーが
ウィニーをやったやつですね。
普通に女優芝居だなという感じでしたよね。
- 藤田
- 日本でもいろんな人がやっていて
それを否定するつもりは無いんですが
僕が見たいと思っていたものとは違ったんですね。
テキストとしてのベケットと
付かず離れずずっと付き合っていたんで
上演がある度に気にはなって出かけるのですが
現実の舞台としては、あまり感銘を受けたことがなく
なんか違う方法があるだろうと、思っていたんです。
例えば、ベケットのテキストを使ったり、
インスパイアされながら距離を置いたりして
いろんな舞台がやられていることがあって
ベケットの考えや美学というものを
いろんな人が自分のヴィジョンに取り込んで上演していて
それはそれで面白いと思うこともあったんですけれど
僕としても一度ベケットとまともに向き合いながら
何かアクチュアルなものを作れる可能性を探りたかったんです。
そうしたら、最近になって、
ベケットのテレビ作品『ねえジョー』を元にした
『ネエアンタ』をやったり
あいちトリエンナーレでは『しあわせな日々』をやったり
たまたまそういう機会に恵まれることが続いた。
- 森山
- ベケットというと、
『ゴドーを待ちながら』『勝負の終わり(エンドゲーム)』
『しあわせな日々』のような長編の戯曲があって
別役さんはそのあたりにインスパイアされたわけですね。
けれども、その後作風がどんどん変わってきて、というか
どんどん小さな実験的作品が増えていく。
別役さんは、後期のベケットには否定的なわけですが
藤田さんはどちらかというと、
後期のほうが面白い、というお立場ですよね。
- 藤田
- そうですね。元転形劇場の鈴木理江子さんが
主にベケットの後期の作品を取り上げて
自ら演じ上演する『ベケット・ライブ』
という企画をなさっていて、
1回目は、ご自身で演出されているのですが
2回目を僕が演出しているんです。
『テキスト・フォア・ナッシング』っていう
短いテキストを元に、彼女が翻訳して、僕も手伝った。
彼女もベケットにずっと興味があって、
ベケットに関する本も翻訳なさっている。
そのあと安藤さんも含めて、ベケットの後期の戯曲
『ロッカバイ』『モノローグ一片』『あしおと』の
3つを重ねた舞台をつくったんですよ。
ベケットがメディアをつかって主体をいかに分裂させていくか
それはとてもアクチュアルな問題だと思っていました。
- 森山
- 後期の作品というと、声の問題、身体と声が
一人の人の中で分裂していて
ばらばらに彷徨っている感じとか
非常に小さい断片で切り取ったりするのがうまい作品ですよね。
ARICAはスタートしたときから
安藤さん、倉石さん、それに音楽家の方、という
ミクストメディア的な方向に重心があったように思いますが
ベケットの後期作品とARICAの活動って
そのぐらい密接に関わっているといっていいのでしょうか?
- 藤田
- それもあるかもしれませんが
今回『しあわせな日々』を演出してみて
初期の舞台作品含めて声の問題、身体の問題、声のリズムの問題
音の問題そういうものを継続的にベケットは考え続けていて
後期のものに関してはそれが短いものになったので
非常にクリアになって
図式的なぐらいはっきりとしてきているから
ある意味でわかりやすい。
でも初期の作品から、そのへんの問題意識がずっと
ベケットにはあったんじゃないかと
やりながらはっきりわかってきた。
『しあわせな日々』は中期の作品ですが
そういう作品と付き合うっていうことは
今までやってきたことの経験として
よかったんじゃないかと思っています。
ベケットの書いた歴史をたどった上で
そこからちょっと戻ることで
捕まえられるものがあるんじゃないかと感じたんですよ。
確かに、ARICAにはミクストメディア的方向がありますし
著作権的には問題なのかもしれませんが
ベケットのテクストを取り出して
いろいろな方法でやることも可能性はあるでしょう。
しかし、今回は、意図的にベケットのト書きに依拠して
つくっています。
例えば、「微笑む、微笑み消える」というト書きが
何十回と繰り返されるのですが
それを不自然なほど忠実にやりきってみる。
すると、ベケットの演劇構造の精妙さが
はっきりと見えてきました。
えらそうに言わせてもらえれば
ベケットに対してあなたがやりたかったことは
こうでもあったんじゃないですか
私はあなたの言った通りやりましたよ
という気構えで向かいたかった。
ベケットの上演としては、
意外と僕は王道だと思っているんです。
また、それを経過することで
なにか新しい問題意識が出てきたような気がします。
ベケットの後期作品の構造を理解することは
とても面白いことなんですが
実際にそれを上演するとなると
後期作品は非常に構造がクリアなだけに、いじりにくい。
でも初期の作品はいろんな夾雑物がある。
そのノイズを引き出して、いわゆる新劇的なやり方
俳優のせりふ術をたよりにするのではないやり方で
上演の方法を探る可能性は
まだあるんじゃないかと思っていました。
だから、あいちトリエンナーレから
『しあわせな日々』のお話をいただいたときにも
やりたい作品でもあったので
なるべくそういうところを注意して上演したいと思いました。
-
藤田康城さん
- 森山
- ARICAの原点のもうひとつとして
ある意味ベケット以上なのかもしれませんが
太田省吾さんの『水の駅』(1981)の体験があると
うかがっています。
太田さんの転形劇場の女優でもあった安藤朋子さんが
今ARICAというカンパニーでやっているのも
そこに起因するんだと思います。
太田作品とベケット作品
何が藤田さんにとっての手がかりになっているのでしょうか?
- 藤田
- 『水の駅』は、DVD-BOX『太田省吾の世界』で
観ることができますが、
実際にあれを劇場で観ると、
劇場に入ったときにまず水の音を意識しました。
壊れた蛇口がひとつ、舞台中央に置かれていて
本物の水がずっと細く流れているんです。
最初は、“わぁ水だ”と新鮮な音に聞こえる。
残念ながら、今観ることのできる映像はNHKが放映するために、
その辺がカットされてしまっていてわからないのですが、
劇場に入ったときから聞こえていた水の音が、
しばらくすると徐々に意識の外に外れていって
聞こえなくなっていくんです。
そのうち暗くなって何か始まる。
僕は初演は観ていないんですけれども、
観えないところから少女が非常にゆっくりした速度で
舞台上にでてくるのに、
でもほとんどの人が気づかない。
そして、ふと気づくと少女が歩いている。
でもすごくゆっくりとした動きで、これはなんなんだと。
それが15分ぐらい続いていくわけですよ。
- 森山
- それが安藤さんだったわけですけれどもね・・・。
- 藤田
- そうです。それで、少女が蛇口のところまで来ると
バスケットをあけてコップを出すんです。
コップを出して流れ落ちる水に差入れると、
いままでずっと聞こえていた音がその瞬間に消える。
でも、感覚的には、そこで初めて
ほんとうに水の音が聞こえはじめた気がしたんですよ。
それがとても印象的だった。
そのとき、ふわーって空間が広がったんです。
ああ、こうして舞台は続いていくんだなあ、
そして人生も続いてく。その「続いていく」って言う感覚を、
どうやってみせることが出来るのか。
舞台の1時間、2時間、3時間という時間を
どうやって人はこことは別なもの、
あるいは観るという経験のなかで
時間が流れているということ、
つまり、そうやって生きている時間があるんだということを
見せることをできるのか、
それが演劇にとっての主題だと思っているんですね。
ベケットはそのことを、ものすごく構造的にやっていた。
たとえば、『ゴドーを待ちながら』とか
『しあわせな日々』なんかは、
時間をわざわざ2幕に分けて、そこに時間の経過をつくる。
繰り返しがあって、徐々に疲弊していく。
そういう〈時間の推移〉を、同じような動作をして、
でも時間が流れていくということを
絶えず知らしめているような瞬間がある。
それは「生きている」って言うことで
太田さんの『水の駅』は、
それを生々しく経験させてくれた気がします。
今までは物語が面白いとか
ドラマティックなことがあるだとか
そういうことを中心に舞台が構成されていたのが、
でもそうじゃなくて、現象としての時間がある・・・。
- 森山
- 時間そのものが生々しくある。
- 藤田
- 『水の駅』における〈水の音〉って
そういうものだったと思うんですよ。
舞台上の俳優が現前しているという問題以上に
「舞台の時間」がそこにある。
そして、それを表現する事がいかに難しいか。
人間が、時間とともに、否応なくそこに生きているということ。
そこが『水の駅』は非常にクリアであり、衝撃的でした。
- 藤田
- 僕は音楽が好きなんですが、
たとえば、フィリップ・グラスが音楽をつけ
当時の奥さんがベケットを演出していたりとか
モートン・フェルドマンがベケットに依頼して
オペラを作ったりとか
ベケットはすごく音楽と親和性が高い。
音楽というのも、時間を作っていくという行為です。
だから、ベケットの舞台と音楽自体とが近しい関係にある。
そんなふうに、あくまでも時間芸術として
ベケットの演劇には、
特別な時間感覚があるんじゃないかと思っていて、
そこは興味があったところですね。
ミニマルだけど、ただ反復していればいいというわけでもなく
反復するための構造が考え抜かれている。
テキスト読んだだけで、そのことが分かる。
いわゆる「演劇」にしてしまうと意外に面白くない。
それは、僕が関心をもっている後期作品に関してさえそうです。
最近も原作に忠実に舞台上演しているものを見ましたが
よく出来ていたけど、なんか閉じちゃっている感じでしたね。
『水の駅』のような生々しさというのはなかった。
安藤さんからもいろいろ聞きましたけど
役者の意識としても、やっぱりやる度ごとに
そのとき考えていることは違うじゃないですか。
〈水の音〉は通低音になっているけれど
役者の意識が動くことによって、たえず舞台は新しくなっている。
だから、何十回繰り返そうが、たえず舞台の流れは変わっていく。
それが舞台の面白さだと思うんです。
ベケットの後期作品を、そのまま上演してしまうと
その「流れ」っていうのが、なかなか流れてくれない。
だから、ARICAでは、もう少し意識的にノイズ、
あるいは音や光や物や動きの関係性を
創りたいと思っているんです。
そうすると固定していく方向じゃなくて
それらが互いにずっと揺れ動いているものなので
絶えず干渉して波紋が広がるような危うさみたいなものを
意図的に置いておきたい。
そういうものを僕は見たいわけです。
だから、演出家ってともすれば
初日が開くともう見に来なくなる人もいますが
僕は自分の舞台はすべて見ることが大切だと考えます。
「出来ちゃったから、あとは宜しく!」
って言うふうにはいかない。
最近は、僕自身も上演中に音響をいじっていたりするんですよ。
予算的な問題もないわけではないですが(笑)。
失敗しても文句を言われない(笑)。
- 森山
- 藤田さん自身もその時間
その空間に存在できるということですね。
結果的には、なんかタデウシュ・カントルみたいですが(笑)
- 藤田
- まぁそうですね。
リチャード・フォアマンも、客席に陣取って
そこから自ら操作する音響によって舞台に介入している。
なんか、あこがれますけどね(笑)、
自分でもうまくいった、今の音良かったなって自画自賛したり、
・・・舞台上の流れと自分とがシンクロしている、って感じると、
ついそういう気分になったりする。
僕は、観る人というか、聴く人というか、
舞台を観続け、聞き続けている演出家だっていう自覚があります。
表現者って、わりとある時から見なくなっちゃうらしいんですよ。
ミュージシャンにしても、演奏をするのに手一杯だから
意外と聞かないとか、あるいは演劇を自分は見ないとか。
でも僕はいろんなものを見続ける人、聞き続ける人。
自分の舞台、ARICAの舞台も、
はじめての観客のように観るって言うことが、
僕にとっては必要だと感じています。
-
安藤朋子さん
- 森山
- ところで、今日はせっかく安藤朋子さんも
お越しいただいているので、
ぜひ安藤さんにもお話しをうかがいたいです。
安藤さんは、太田省吾の沈黙劇をずっとなさっていて、
だけど、今回の『しあわせな日々』は、
その正反対にずっと喋りつづけですよね(笑)。
素朴な質問ですが、そのことはどんな感じなんでしょう。
また、そうやって発話するベケットの言葉の感覚って、
いったいどういうものなんでしょうか。
- 安藤
- 昨年の「あいちトリエンナーレ」も、
今年になってやった横浜での「TPAM」の上演も、
正直言って、せりふを覚えるのが精一杯というところもありましたね。
ほんとうにどこまで自分のやりたいことが出来ているかっていうのを、
せっかく今度京都の機会を頂いたので
、もっとすすめていきたいと思っています。
このお芝居は、一人の女の回想であるとか、
呟きであるとか、とりとめのない話で、
最後ちょっとかわいそうな感じの女の人とか、
そういう人生物語みたいな狭い枠の世界ではやりたくないなっていうのがあります。
振幅が激しいところがあったり、
もっとたがが外れたところがあったり、
ネジがゆるんで、壊れる寸前の状態に興味があります。
太田さんから学んだのは、普通はテキストを渡されると、
テキストを解釈して、その意味を伝達する、
ここはどんなふうに感情表現する、
とかそういう手法をとるんですけれども、
沈黙劇をやったことによって、
「言葉に沿って何かを演じる」っていうことから
もっと自由になれる場所があるんだという感覚を見つけることができました。
言葉は言葉としてあるけれども中身が違うというか・・・。
ベケットの面白さと言うのは、
言葉で捕まえきれない危ういところがあるんですが、
太田さんもきっと喜怒哀楽では表現できない
こぼれおちるフラジャイルな感覚を捕まえようとしていたと思うし、
そこらへんが一番大事だと思っていますね。
ベケットの言葉を利用して、
もっと自分の中を開放しようというふうに思っているのは、
たぶん太田さんと一緒にやってきたおかげじゃないかなと思っています。
- 森山
- たとえば、安藤さんが演じていらっしゃる『しあわせな日々』のウィニーは、
「あぁなんて今日は幸せな日」って言って、
ニコニコっとした直後にすっと微笑みが消えるとか、
そういうことが戯曲にも書かれていますよね。
「今日も幸せ!」っていう言葉の中に、
すでに幸せじゃないって感覚も全部含まれている・・・。
- 安藤
- そうです。一つの言葉が持つ意味と言うのは、
一方向じゃなくて、いろんな多角的な方向があって、
その時その時で違ってもいいんじゃないかっていうふうに思います。
- 森山
- 太田さんの沈黙劇も、一つの言葉が孕んでいる多面的な意味や
方向性を解放するような体験だったんでしょうか
- 安藤
- とくに『水の駅』の初演では、台本には書かれているけれど、
実際は発語しないせりふ、内的な言葉、を与えられていたんで、
その言葉を使っているんですね。だけど表現は自由なんです。
同じ言葉を喋っていても、ある時は苛立たしそうに見えていたり、
おびえているように見えているだとか、それは自由なんですよ。
身体性のことも、もちろんそうですね。
言葉で伝えるんじゃなくて
身体が表現していくっていうことがあるときに、
普通この言葉を言ったら、
こういう動作でしょっていうんじゃなくて、
動作と行為と言葉がちぐはぐなことを、
あえて意識的にすることで、
違うことが生まれてくるというようなところを目指したいと思います。
- 森山
- 身体性のことでいうと、
太田さんの沈黙劇は、非常にゆっくりとしたテンポで動くわけですね。
つまりそこには、身体に対する負荷みたいなものがあるわけですが、
ベケットの『しあわせな日々』の場合も、
身体に対するはっきりとした拘束があります。
1幕では下半身が砂山に埋もれている、
2幕では首まで埋もれている。
そういう点で、太田省吾の身体的な拘束とベケットの
それとの違いについてはどうでしょうか。
- 安藤
- 太田さんの場合はですね、
ゆっくりという動きはゆっくりなんですけど、
かなり内実が充実した意識の転換、それが大事。
神経が変わっていかないと形骸化してしまう、
その内実を充実させるっていうことが一番大事なことだと思うんです。
それはスピードが速くなっても同じで、
表面的な振りだとかじゃなくて、神経が変わっていかないとつまらない。
っていうのは太田さんの沈黙劇から得たものです。
- 森山
- ベケットを演じる場合にも今回はそういうことっていうのはかなり?
- 安藤
- そうですね、意識は。
簡単に意識といっても、楽しいところから悲しいところへ、
っていうことじゃなくて、微妙なところなんですけど。
- 森山
- それと関連することですが、
私は去年のあいちトリエンナーレを観させていただいて、
すごく印象的で面白かったのは、
安藤さんが喋っていらっしゃるときに、
これがまた非常に微妙な感じでイトケンさんの「音楽」がなってますよね。
音楽が鳴っていると、その意識のあり方みたいものは、
かなり変わるというか、たとえば言葉と音楽のあいだに、
ある種のセッションのようなものが生じるものでしょうか?
- 安藤
- あれね、私は精一杯なんだけど、
こちらの音楽家の人たち、音響の人も、
ボイス・パフォーマーの福岡さんもかなり合わせてくださっているみたいですね。
彼らの方が即興演奏で、
安藤さん今日はこう出てきたからこう演奏しようとか、
それはかなりあると思いますね。
- 森山
- それでは藤田さん、あらためて、
美術、音楽も含めて、トータルでの『しあわせな日々』の、
この辺をぜひ見てほしいということがありましたら最後にどうぞ。
- 藤田
- そうですね。ほんとうにトータルっていう言葉の正確な意味で、
いろんな要素が互いに対等に干渉しあい、
関係しあうっていうことをやりたいと思っています。
僕が今まで見てきた舞台では、
言葉のイメージというのを正確に演技するっていう舞台がわりと多かったですね。
それはそれで、ベケットの登場人物の悲しみが伝わってきますけれども、
なるべくそういう言葉の雰囲気にくみしない舞台にしたい。
それは必ずどっかあるだろう、ベケットが書いた戯曲だから。
そして、我々それぞれの人生の中の、
それぞれの立場、それぞれの経験の中で、それぞれが受け取るためには、
その言葉のイメージだけにはとらわれない、
舞台の現象でしか起こりえないような〈生々しさ〉みたいなものを取り出したい、と思っています。
そのためには美術、音楽、そして声、言葉というものが絶えず舞台上に動いていて、
それらが共振し合うようにしたい。
そういう意味で真に統合的な舞台を作りたいと思っている。
- 安藤
- やっぱり私、音楽の影響受けてますね、さっきの話ですけど(笑)。
この音がきたからこう出ようとか、やっぱりそれは絶えず変わっていますね。
- 藤田
- そして安藤さんの裏で、
ウィーリー役の福岡さんがずっと声を出していて、
彼はボイス・インプロバイザー、もちろん普通の歌も歌うんですけど、
安藤さんのその日の声の調子によって、
あるいは今日はこういうスピードだからといって、
彼は声を差し込んでくるんですね、作曲しているわけではない、
ここでこういう声を出してくださいと、
はっきり決めているわけじゃないんですよ。
なんとなくはありますけれども、
でもそれは安藤さんの劇や言葉の調子に合わせて、
合奏しているんですね。もちろん僕も、
まぁイトケンさんが中心ですけども、
その音を出すっていうことは決めていて、
だいたいタイミングもあるんですが、
でもその時の安藤さんの動きによって、
微妙に音を出すの変えているんですね。
だからそれぞれ舞台上で、絶えずお互いに音を聞きながら、
様子をみながら、合奏している。
- 安藤
- だから、ミュージシャンてすごい自由っていうか、
発想が自由で、役者とやったらこうは行かないだろうって、
固定化していくようなシーンでも
ミュージシャンって即興でいろいろやってくるから、
それに刺激を受けてまた全然違う方向に走っていったりとか、
なんか絶えずそうですね。
- 森山
- 毎日違うでしょうしね。
- 安藤
- 違いますね。
- 森山
- 今のお話を聞いて、
「なんかコンサートみたいでなんか面白そう」って思った人も、
是非観に来て欲しいっていうふうに考えてもよろしいんでしょうか?
- 藤田
- そうですね。
だから僕は音楽セッションだと思っているんですよ、ある種の。
今まで、ずっとそういう風にARICAはやってきたつもりだし、
今回の舞台もそうです。
公演詳細