はじめに

恒例となりました「春秋座-能と狂言」。今年度は、「山」に因んだ曲を二つ。
能は、善光寺へ通じる深山で、道に迷った都の芸能者たち――彼らは「山姥の曲舞(やまんばのくせまい)」という芸能を得意としているのですが――のもとへ、本物の「山姥」が出て来てしまうという、今風に言えば、まさに「メタ=シアター」を逆手にとった、世阿弥の自信作です。そもそも「曲舞」は、世阿弥の父観阿弥が、当時の流行(はやり)の芸能であったものを、猿楽の能に取り入れ、その長大な「語り舞」によって、大和猿楽の音曲面も舞の部分も、飛躍的な変化を実現した芸能でした。銕之丞師の舞うシテの老女は、深山幽谷に棲む超自然的な存在であり、都の芸能者を巻き込んで、長大な「曲舞」を舞い、それを「山姥の山巡り」へと繋げて、深山幽谷に舞い遊びます。能という芸能の孕む「宇宙的な神秘」に通じる「超絶的な幽玄」と言ったらよいでしょうか。

狂言は、冬と雪にも因んだ大曲、『木六駄』を、人間国宝の野村万作師に演じていただきます。話は、暮のご祝儀として、主人が、山一つ超えた伯父のもとへ、「木六駄」「炭六駄」「酒一樽」を届けるように、太郎冠者に命じます。「六頭の牛に積めるだけの薪」というのが、「木六駄」の意味ですが、歳暮の品はもっと多いので、太郎冠者は十二頭の牛に荷を積んで出発します。折からの大雪。『木六駄』の見せ場は、「舞台にはいない、一列に繋いだ十二頭の牛を、いかにして大雪の降り積もる峠を無事に越えさせるか」という、まさに「見えない物」を「生き生きと現実にそこにいるかのように見せる」演技にあります。能舞台では、橋掛かりからワキ柱まで、舞台空間としては最大限の距離を取って、太郎冠者のこの「雪中の牛を連れての峠越え」を演じますが、春秋座の花道を使った演出ではどうなるか、今から楽しみです。峠の茶屋まで辿り着いて、寒さを紛らわすために、つい、主人に託された「歳暮」の酒を、樽を開けて飲んでしまう太郎冠者の酔態も、後半の見せ場です。深深と降り積もる峠の茶屋における情景として、「真っ黒になって落ちてくる」と言った台詞にも伺える、まさに日本人の「季節感による詩情」の典型です。

万作先生の父上の六世万蔵師の最晩年の舞台では、能楽堂の空間に、本当に「真っ黒になって落ちてくる雪」という風流が現出した、感動的な瞬間がありました。御父君をも越えて万作師の太郎冠者が、どんな「雪景色」を、春秋座で体験させてくださるか。今から、ぞくぞくする思いです。

渡邊守章(京都造形芸術大学客員教授、演出家)