―島田歌穂さんは子役でデビューされたのですよね。お父様は音楽家、お母様は宝塚出身のジャズ歌手ですが、デビューのきっかけは何だったのですか?
子供の頃、西野バレエ団でバレエを習っていたんです。 そこで声をかけていただいたのがきっかけでした。 でも、気が付いたら歌ったり踊ったりすることが大好きで、 お芝居にも興味があったので両親も 「やりたいと思うならやってみなさい」って言ってくれたんです。
やってみたらドラマが面白くてしょうがなくて、 「私は女優になるんだわ」って子供心に思っていました。 高校生になると「アイドル歌手やってみない?」って言われまして ちょうどその頃、80年代アイドルブーム真っ只中。 アイドルなら今しかできないし「やってみます!」と言って 近藤真彦さんと同じ年にデビューしたのですが、 これが全く売れなくて。困ったなーと思っていたら、 「ミュージカルのオーディション受けてみるか?」ということで 受けたらなんと受かりまして。 『シンデレラ』で主役をやらせていただきました。
この初舞台の時に、もう、かつて体感したことのない感じ… なんていうでしょう。今まで自分が知らなかった 自分の中に眠っていたエネルギーみたいなものが お客様の前に立った時にぐわーっと出てくるような気がしたんです。 もう、「キモチイイ~!!」「楽しい~!!!」って(笑)
ここが私の一番輝ける場所なんじゃないかと 舞台の上で感じたんですよ。 アイドルなんて辞めて私はこの道に進む!って決めちゃいました。
とはいえ、すぐに役がもらえるわけでではなく、 アンサンブルの時代があって、少しずつ役をもらえるようになって そんな時に『レ・ミゼラブル』オーディションの話があったんです。 受かるわけないと思いながらも、 この舞台は何かすごいことが起きそうで、 参加することに意義があるような気がして オーディションに参加したのですが、なんとエポニーヌ役に合格してしまって。 この『レ・ミゼラブル』は、大きく人生を開いてくれた作品ですね。 感謝し続けている作品です。
―同年に『レ・ミゼラブル』の世界ベストメンバーに選ばれて、日本の俳優・歌手として初めてイギリスのザ・ロイヤル・バラエティ・パフォーマンスに招待されたんですよね。
これは英国王室主宰のチャリティコンサートで、 色々なアーティストが参加するのですが、 その時に『レ・ミゼラブル』のカンパニーが出ることになり、 世界中からメンバーが集められたんです。
NYから一人、イスラエルから素晴らしいジャンバルジャン、 エポニーヌは日本からということになり呼んでもらえたんです。
その後に、舞台を最初から最後まで観るのと同じように録音した コンプリートアルバムを作ることになって その時にも各国からベストキャストが集められることになり、 私も声をかけていただき、英語で録音に参加しました。 そのアルバムがグラミー賞を受賞しまして。 (1990年第32回グラミー賞「Best Musical Cast Show Album」 (レ・ミゼラブル/インターナショナル・キャスト盤)
―当時、日本でグラミー賞を取った方って、ほとんどいらっしゃらないですよね。
私がステージでトロフィーをもらったわけではないので(笑) でも授賞式でプリンシパルとして名前を呼んでもらえたんですよ。
その頃はブロードウェイにロンドンのミュージカルが台頭してきた初期で、 ミュージカル界の歴史も動き始めていたような時でしたね。 だから、そういう企画が珍しかったと思いますし、 世界中で同じ作品を各国の言葉で上演するとか、 色々な意味でセンセーショナルな 感じに取りあげていただいたんだと思います。