2つの戦争を生き抜き、 パリから世界へ躍り出た劇的な成功の影で いくつもの愛と別れ、 非情な運命と戦った シャンソンの女王エディット・ピアフ。 ドイツ出身で、その後アメリカに渡り 大女優となったマレーネ・デートリヒ。 デートリヒとピアフは深い親交を結び ピアフが亡くなるまでデートリヒは 精神的に彼女を支えました。 このピアフとデートリヒを繋ぐストーリーを 加藤登紀子が時にデートリヒとなり、 時にピアフとなって 語り、演じ、歌います。
デートリヒはピアフより15歳年上で、 ドイツで生まれアメリカに渡った大女優。 ピアフと同じく、2つの戦争を体験した人でした。 そんな2人が出会ったのは 第二次世界大戦後のアメリカ。 ちょうどピアフは マルセル・セルダンと恋をしていた頃で、 やっとニューヨークで成功した頃ね。
私は、誕生日が同じということもあって デートリヒが大好きなのだけれど ピアフもずっとデートリヒに憧れていたの。 でもその後、マルセル・セルダンが死んでしまったり、 ピアフ自身も交通事故に遭ったりして、 精神的にも肉体的にもボロボロになってしまう。 その時期に彼女を支えていたのが デートリヒだったんです。 そしてピアフが亡くなるまで、 深い友としてピアフを支え続けたんですね。 ピアフ自身、自分の一番苦しかった時の話をする時、 「マレーネ・デートリヒが助けてくれたのよ」って よく言っています。 デートリヒに憧れ、 ボロボロの時代を支えてもらったピアフの人生は 20世紀を90年近く生きたデートリヒの人生の中に 挟まれてしまっているような感じでもあるのね。 だからこのモノオペラでは デートリヒにピアフの人生を語ってもらおうと 計画しているんです。 そして今回、もうひとつ 特別なドラマがあるんですよ。
ピアフは1963年10月に 47歳の若さで亡くなるんですが、 実はこの年、大々的なアメリカツアーを 予定していたんです。 これはあまり知られていない話。 先日、日本のテレビのドキュメンタリーが そのことをつきとめたんです。
ピアフの晩年に非常に 大きな影響を与えた人物の一人に シャルル・デュモンという人がいます。 彼は1960年に 『私は後悔しない(Non, Je ne regretterien)』 という曲を作り、初めてピアフに会うんですね。 ピアフはそれを聴いたとたん 病気のために体がボロボロになっていて 2度とステージに立てないと言われていたのに 3カ月のロングランを引き受けてやりきった。 それから再び大々的に歌手活動を始めるんです。 そのデュモンが1963年に ピアフのために再び曲を作り、 ジャック・ブレルが詞を書いた作品があった。 それもテレビのドキュメントがつきとめたんです。 というのもデュモンが新曲を作って ピアフに歌ってほしいと電話をしたのですが、 病気でとても会える状況になかった。 それでデュモンは諦めて、 自分の曲として歌っていたんです。 ところが今回、ピアフの最後の肉声音源の中に 「シャルル・デュモンが新しい曲を書いてくれたからそれを歌いたいの」 という一言があったんですよ。 その声が肉声で残っていたの。 そして、それをドキュメントのクルーが デュモンに聞かせたら、びっくりしてね、 「そうだったのか、じゃあもう一押してればよかったな」って。 だけど、その音源の中のピアフの声は もう、本当に衰弱したような声で、 やっとしゃべっているんです。 デュモンが電話をした時、ピアフが 「電話口で歌ってみてちょうだい」って 言ったので、歌った。 それが『あなた次第』っていう曲なんです。
でも、これがジャック・ブレルの詞じゃなかったら 私、こんなに興奮はしていないの。 ピアフがジャック・ブレルを 歌ったかもしれないとしたら、 あぁ…そうしたらよかったのにねって。 つまり、いい曲なんですよね。かなり。
ピアフのために書いた ジャック・ブレルの歌が残っている。 デュモンが歌っている、あの曲が ピアフのために作った曲だなんて パリ中の人も知らないし、 ピアフが歌ってもいいと思っていたなんて デュモンも最近まで知らなかった。 ピアフが歌わなかった、 ピアフのために作られた ピアフ自身が歌っていない この最後の曲を私は歌いたいんです。 今までのピアフ物語の中で一度も出てきていない曲。 私はその曲で、このピアフの人生物語を 締めくくりたいなと思っているんです。 それはピアフからみんなに届けられた 最後のメッセージみたいな感じになると いいなと思っているんですけれどね。 日本語訳の詞もできていて、 そろそろ歌の練習も始めなくてはいけないところ。 みんながあんまり知らない曲だから、 ピアフの歌では一回も聴いたことないわけだし。 でも聴きやすい、わりとなじみやすい、優しい曲。 優しいというか穏やかな…、ええ、優しい曲です。 それとピアフが死んだ63年頃といえば ジャック・ブレルの全盛期でもあります。 ピアフとブレルは 会ったことがあるのか、なかったのか。 それをこの曲の詞訳を相談したフランス人に頼んで デュモンに聞いてもらっているの。 今から思うとピアフはシャルル・アズナヴール、 イヴ・モンタン、ジョルジュ・ムスタキって、 シャンソンの一時代を画した人たち全員と 会っているんですよね。 デュモンとブレルは友達だけど、 ピアフはブレルに対してどう思っていたのか。 会ったことがなかったのなら、 会えない理由――、例えばすれ違いだったとか。 そんなことが分かれば、 ちょっと彼女のストーリーに プラスしてもいいかなと思って。 でも、私なりにも知りたいなって思っているんです。