加藤登紀子さんに聞く「ピアフと私」

2つの戦争を生き抜き、 パリから世界へ躍り出た劇的な成功の影で いくつもの愛と別れ、 非情な運命と戦った シャンソンの女王エディット・ピアフ。 ドイツ出身で、その後アメリカに渡り 大女優となったマレーネ・デートリヒ。 デートリヒとピアフは深い親交を結び ピアフが亡くなるまでデートリヒは 精神的に彼女を支えました。 このピアフとデートリヒを繋ぐストーリーを 加藤登紀子が時にデートリヒとなり、 時にピアフとなって 語り、演じ、歌います。

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第2幕 ピアフと恋

恋愛と2度の結婚

ピアフは、そうね…なんていうかしら、 本物の人間が好きだったんだって私は思う。 すごく厳しいんですよね。 だから恋をしたのは 素晴らしい才能を持った人ばかり。 でもね、こうも言ってるの。 「恋が始まる瞬間はどれも素晴らしかったの。 だけれど、どんな恋も、 まあ途中で私が捨てたのね。ほとんど」 どこかで恋が減速するというのかしら、 100%じゃなくなった時、耐えられない。 そうすると「ごめんね」って捨てちゃうのね。 愛はずっと100%のままでは、いかないですから。 薄れたり嘘やごまかしが出てきたりとかする。 それが耐えられないのね。 だから別れちゃうんだけれど、 マルセル・セルダンは死んでしまったことによって、 彼女の中では絶対の存在になる。

よく…、私はよく分かる気がするんだけれどね、 ピアフの気持ち。 愛が始まった時、100%以上のエネルギーで 邁進していっちゃう感じって。 だけど、ちょっとでも愛が薄れた時に 嫌! ってなっちゃう。 「ああ、いい人だったのに惜しいことしたわ。 悪い人じゃなかった。素敵な人だったし。 だけれどダメなのよ」 って言うのよ。

テオ・サラポ

ヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身。ピアフの2度目の夫。

そんな風にピアフは愛に生きた人ではあるけれど、 ピアフは2回しか結婚していないんです。 最初の夫は歌手のジャック・パル。 2回目は晩年に結婚した テオ・サラポっていう若い男。 でも、その話は私、あんまり重要視していないの。 テオ・サラポとの恋は 全くピアフの中では問題にならないと感じていて。 あれは、お話の中になくてもいいぐらい。 というのはね、ジョン・ノリが書いた 『エディット・ピアフ「バラ色の人生」挽歌』という本の中で、 新聞記者が証言しているの。 ピアフは事故や色々なことがあって 人々の前に出てなかったのだけれど、 このまま人々から忘れされちゃうのは嫌。 何かいい作戦はないかしら、と考えていたところに ファンだと言ってやってきた、この子と結婚したら マスコミをどのぐらい騒がせられるかしら、 と計算して、テオと一緒になったんですよね。 だからその辺はもう、それまでの恋のようなものではないですね。 いよいよ自分の体がボロボロになった時、 側にいないでほしいって彼を手離しちゃうんです。 「あなたはこれから生きていく人だし、 私はこれから死んでいくだけの人だから、 そばにいても何にも得るものがないから行きなさい」って。 南フランスで療養している間に家から出しちゃう。 「パリでお仕事していなさい」って。

戦争と「パダン・パダン」という曲

さっきも言ったようにピアフは 愛に生きた人ではあるけれど、 自分vs国家、自分vs社会をすごく考えていた… いや、考えていたというより戦争中でしたからね。 当時、フランスはナチスドイツの支配下でした。 ポーランドはナチスと戦ったから 皆殺しにされちゃったけれども、 フランスはすぐに降服したから、 パリは燃やされなかった。 その大変な抑圧下のフランスで 歌姫だったわけだからね。 ピアフの『愛の讃歌(Hymne à l'amour)』の中に、 ―あなたが言うなら国も捨てるわ 友もいらない― という歌詞があるんだけれど それについて私、若い人に言われたことがあるの。 「どういう意味ですか?」って。 今の日本人なら国を捨てるって 外国で暮らすってことかな、 と思うかもしれないけれど、 当時はとても重要な問題だったはずです。

デートリヒを気に入っていたヒットラーは、彼女にドイツに戻るよう要請。しかし、ナチスを嫌ってたデートリヒはそれを断り、アメリカ市民権を取得した。そのためドイツでデートリヒの映画は上映禁止となった。

だってデートリヒなんてね、ドイツ人でありながら、 ヒットラーと戦うわけだから とんでもないことだったと思いますね。 1人の人間でありながら、 国を向こうに張って生きた女性という意味でも ピアフはデートリヒを すごく大尊敬していたと思います。 だから今回は、戦争中のピアフにも 焦点を当てたいんです。 そこで出てくるのが 『パダン・パダン(Padam... Padam)』という曲。 国が戦争している時、 どういう風に生き延びる方法があるのか、 どういう風に自分を失わずに生きられるのか。 これは、大きな問いですよね。 そこでピアフはどう生きたのか。 当時、ナチスから逃れるために ドイツから沢山の音楽家たちがパリにやって来て パリには猛烈に音楽家が集まったんです。 ピアフはそれにワクワクしたわけですよ。 その中の1人のユダヤ人と良い仲になって、 2年ぐらい一緒に暮らしているわけ。 その彼が作ったのが『パダン・パダン』なんです。

戦後のピアフは、有名な 『バラ色の人生(La Vie en rose)』から始まります。 これは戦時下で作られた歌で、 1945年に戦争が終わって すぐにリリースされました。 この曲が華々しくヒットして、 笑っちゃうぐらい世界的大スターになるんだけれど、 最初に言ったように恋人マルセル・セルダンを 事故で亡くすことで、一気に暗闇に転じてしまう。 そのズタズタになっている時に 戦争中のことを思い出すんです。 戦中に一緒に暮らした ユダヤ人ピアニストが作った曲を そのままにしている。 だから私は呪われているんだわ。 あの時代のことをあのままにしているから 私は呪われているんだって。 毎晩うなされて眠れない。 この曲を歌えば私はまた次に行けるって 『パダン・パダン』を歌った。 それが1951年。 どん底の人生から立ち上がるきっかけになったのが、 この『パダン・パダン』なんです。 戦争中の恐ろしかった毎日を歌わなければいけない。 歌って再起していく。

シャルル・トレネ

1913年生まれのフランスのシャンソン歌手、作詞家、作曲家。優しく軽やかな歌声とパフォーマンスで「歌う狂人(道化師)」と称された。

ところがね、シャルル・トレネが 『パダン・パダン』を、盗んだの。 で、それで取り返しに殴りに行くの(笑) ピアフが口ずさんでいたのを聞いていた シャルル・トレネが盗作しようとするんですよ。 作曲者といっても名前も出せないんだもの。 ユダヤ人は。 それでものすごく怒るわけよね。

「あなたじゃない、私が歌う曲よ!」 って取り返して、著作権登録できる出版社に、 こっそり持っていって、 ユダヤ人の名前で著作権登録するんですよ。 ピアフと作曲者の関係も隠しているから、 こっそりとね。 そういうの絶対、許せなかった人だから 徹底的に戦っちゃうのね。

第3幕 登紀子さんの少女時代と京都のこと