京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催
研究会 ダンス 研究と実験VOL.2 2009
土方巽~言葉と身体をめぐって

京都芸術劇場 春秋座 studio21

研究会の記録

土方巽の「肉体の闇」について

はじめまして、田中です。
「舞踏は死んだ」と言われて久しいわけですけれども、土方巽亡き後、土方が提出した舞踏の理念はますますマイナーなものになりつつある、そんな気がしてなりません。このマイナーなものがこの地上から消えることがないようにという想いで、私は『舞踏の欲望』という文章を書き、そして現在ブログで公開しています。
今日はその『舞踏の欲望』という文章について話そうと思うのですが、あらためて読み直してみるとわかりづらい点がたくさんあります。というのも、舞踏について整理してはいけないという考えが働くものですから、雑多な方向性を書き散らしているわけです。それで、今日は整理して話すことにします。土方の言葉で「肉体の闇」というのがありますが、とても曖昧な考え方だと思います。この「肉体の闇」という、あるともないともいえないものを軸にして、今日はざっと整理して話すことにします。整理するといろいろなものが見えなくなってしまうおそれがありますが、それを承知で、あえて整理して話すことにします。
「肉体の闇」について話す前に、土方の舞踏の理念の土台となる「闇」についてまず触れておきたいと思います。この「闇」というのは、土方がそれについて語るときにはきまって充実感を込めているように、それは全体を感じとることができるという意味で、「闇」の語とはうらはらに、そもそも明るいものです。土方の考え方からすれば、「目で見ることが全体を隠し、目で見ないことが全体をあらわにする」のであり、「闇」というのは、全体感覚という充実をこそ言い表していると考えられます。ですから、「闇」というのは全体的なものなのですね。全体的なものですから、それを部分として取り分けることができない。それゆえそれについては考えることができない、というようなものとして呈示されていると思います。
それで「肉体の闇」というものを考えてみるわけですが、「肉体の闇」というのは、「闇」を、「肉体の」と限定しているわけです。また「肉体の闇」と、「闇」を特定しているわけです。そのことに注目したいと思います。というのは、「闇」について考えることはできないけれど、「肉体の闇」については十分考えることができるということです。それで「肉体の闇」について考えてみるわけですが、「肉体の闇」について考えることも、なんといいますか、あたかも底なし沼みたいなものにずぶずぶはまっていく、といったような感じになってしまいます。考えれば考えるほど収支がつかなくなっていく。「肉体の闇」とは何かをうまく説明できればいいのですが、なかなか説明しにくいものですから、順を追って話していくことにします。「肉体の闇」とは何かといいますと、それはまず言葉を呼び込むものである。要するに、結果的に言葉で成り立っているわけですが、言葉を介してからだが体験的なものに染め上げられていく、というような状態であるとひとまず言っておきます。
それで、「肉体の闇」の言葉、というものが想定されるわけですが、ところがそれは言葉で成り立ってはいるけれど、目の前のサブジェクトとオブジェクトがはっきりしないわけですね。これは土方の文章を読んだことがある方ならわかると思いますが、何が何をどうしたという文脈がまったく理解できないことがある。そんなふうですから、その言葉を前にして、言葉ごとからだにざぶっと浴びるようなはめになってしまう、そういうような印象を受けるわけです。
たとえば、『病める舞姫』の執筆に没頭している土方のからだが染め上げられている状態、それを「肉体の闇」という底なし沼的な体験と考えることができるかと思います。土方には、底なし沼にずぶずぶとはまっていくような体験が豊かなものだと感じられていたわけです。なぜかというと、これはちょっと堂々巡りになりますが、言葉による認識的な局面がすぐさま体験的なものになっていく、そのようにして体験的なものでからだが染め上げられてゆく、という「肉体の闇」が促すそうした性質が、土方にとってひじょうに豊かなものであるというふうに考えられていたからではないかと思います。
そして、この言葉による認識的な局面がすぐさま体験的な局面に移り替わっていくところに、舞踏の技術的な局面というものが生じてくる契機がある、そう私は考えているわけです。というのも、土方は、認識的な局面が体験的な局面に移り替わるその転換を、「からだの入れ換え」という言葉で強調していると思うからです。
「からだの入れ換え」という言葉を、土方のテキストを読んでいる方ならば知っていると思いますが、それはどういうことかといえば、「肉体の闇」の底なし沼的な言葉というのは、主客の区別がはっきりしない。たとえば『病める舞姫』を例にとりますと、そこで土方は自分の少年について語っている。でもそれは土方の少年時代の話ではないと考えます。ではそれは何かといいますと、土方が現在において体験していることですね。現在体験していることをあらわそうとして、少年、すなわち過去というものをスクリーンにしてからだに設定するわけです。からだに過去というスクリーンを設定する。するとそのスクリーンに、現在起きていることが言葉と共に映し出されてくるわけです。そういうふうに考えた方がわかりやすいのではないかと思います。その方が土方と少年の関係を把握しやすいと思います。要するに、現在において体験されているものすごく微細な出来事がありますね。たとえば気分であるとか、感じであるとか、あるいはvector-feeling-toneという言葉がありますが、ベクトル的な質と量をもったフィーリング(感じ)、そうした微細なものの色合いや調子、そういう細かな現象がたえず変動しているわけですね。そうした現象を、過去というからだに設定されたスクリーンに映し出す。いわゆる微細な出来事の変動を映し出すわけです。映し出すことによって、現在において体験されているものが、自分のからだにおいて対象化されることになるわけです。ただ体験しているだけであればその現象は対象化されません。からだに映し出すという作業があってはじめてその現象はそのまま対象化される、という作業を土方はしているのではないかと思います。いわば、そのようにして対象化するという働きを、「肉体の闇」がしているわけです。
そしてそのときですね、からだにおいてそのようにして対象化されたものから逆に自分が見つめられるという意味で、「からだの入れ換え」という事態があるのだと考えることができます。いわば映し出すことで、反対にその映し出されたもの、映し出されたそのからだから見つめられてしまうということが起こるわけです。そうした特異な事態に、ある種の緊張感があるわけです。その緊張感を、土方は「からだの入れ換え」という言葉で示そうとしているのではないかと考えられるわけです。
ただし、こうした「からだの入れ換え」だけでは表現的なものにいたらないわけです。その「入れ換え」を表現的に成立させなければならない。そこで、「からだの入れ換え」を表現的に成立させようする技術的な局面として、「死体である」ことの技法というものがある、そう考えることができるのではないかと思います。「死体である」ことというのは、土方の「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という言葉をふまえているわけですが、これについては様々な解釈がありますが、私はいわゆる舞踏の技法を示していると考えています。「死体である」ことの技法、それは具体的に言えば、からだを物にするという仕方です。
その内容について説明しますと、「死体である」ことの技法の前提となるものに「裸体」、すなわち裸のからだがあります。つまり、舞踏の認識的な局面の土台となるものが「闇」であるとすれば、舞踏の技術的な局面の土台となるものは「裸体」であるということです。
この「裸体」というのは、衣服を脱げば裸になるといった裸のからだのことではありません。土方は衣服を脱いだら裸になる、その裸でさえ衣装と考えていたわけですから。裸の衣装を脱いだところにあらわれてくるさらなる「裸体」、そうしたものを考えていたわけです。
この「裸体」とは何かといいますと、これは私の勝手な解釈になりますけれど、いわゆる私たちのからだというのは、まず肉でできていますね。いろいろな細胞というふうにして細かく分かれてはいるけれど、モノとしての肉でできているわけです。そしてまず、その肉の感覚がありますね。それからその肉の感覚が組織されて、肉の表情がからだにあらわれています。その肉の表情にも、土方の言葉で言えば、「立っている」表情と「立てない」表情というものがあるわけです。いわゆる身体化された表情と身体化をはぐれた表情と言い換えることのできる、二つの肉の表情があると考えられます。さらにその身体化をはぐれた表情を支えるようにして、強度というものが、わけのわからないもののようにしてからだの細部にいたるまで繰り広げられているわけです。こうした、肉と肉の感覚と肉の表情、そして強度とみなされるものが、一つの層になって私たちのからだは成り立っている、というふうに考えることができます。そうした「多層な成り立ちをしたからだ」というものを、「裸体」として考えることができると思います。こうしたからだが「裸体」であるのは、たとえば私たちはパーソナルなというか、知らず知らずのうちに「私」を軸にして一つにまとめられた身体をしているわけですが、そうした身体が「多層な成り立ちをしたからだ」を隠しているからです。ですから、パーソナルな衣装を脱いだところにあらわれてくるものがあり、それが「多層な成り立ちをしたからだ」、すなわち「裸体」である、というふうに考えることができるのではないかと思います。
「死体である」ことの技法というのは、このパーソナルな身体をいったん解除する方法であるわけです。解除されることで、そこに「肉体の闇」の底なし沼的な言葉を受け入れることができる下地ができる。その下地にですね、様々な言葉が、底なし沼的な内容であって、ここでは例をあげませんけれど、主客を逸脱したような内容の言葉が、その下地に、歯車のように噛み合わされていくわけです。噛み合わされていくことで、そこに「多層な成り立ちをしたからだ」が具体的に繰り広げられていく、そういうふうに考えることができると思います。
具体的には舞踏符の言葉がありますが、いわゆるそれは、「肉体の闇」という特異な内容をもった言葉であるというふうに考えてください。その舞踏符の言葉をからだに与えます。からだに与える、すなわちパーソナルな身体が解除されて「肉体の闇」の底なし沼的な内容を受け入れる準備ができているからだに与えますと、そこに「からだのアレンジメント」として提示されてくるものがあります。そこに見えてくるものがあるんですね。そして、舞踏符の技法というのは、舞踏符の言葉と、からだで示されるそのアレンジメントとの関係を操作するような技法であると考えることができるわけです。舞踏符の技法というのは、底なし沼的な内容の言葉を受け入れることのできる「多層な成り立ちをしたからだ」を準備し、特異な内容の言葉とそこに示されるものとの関係がやりとりされることで、そこに繰り広げられるものを操作する仕方である、そう考えることができるわけです。そうすることで、「からだのアレンジメント」を連続させることによる身体表現が実現されることになったわけです。
要するに、ここまで何を言いたいのかといえば、「肉体の闇」という底なし沼的なもの、それは私たちが現在において体験し得る微細な出来事ですね。そうした出来事が「からだのアレンジメント」として対象化される、そうした仕方による身体表現が確認されることになったということです。
さきほどから「アレンジメント」という言葉を使っていますが、「アレンジメント」とは、「配列」とか「配置」という意味ですが、ここでは神経の配列を意味します。つまり舞踏符の言葉を与えられると、からだに或る神経の配列が生じる。神経の配列というか、神経の働きがある。神経の働きというか、神経の反応があるわけです。その神経の反応を、アレンジメントという神経の配列としてイメージしているわけですが、ただし「からだのアレンジメント」というのは、こうした神経の配列だけを意味しているのではありません。つまり「からだのアレンジメント」というのは、からだの部分としてあらわれているのではないのです。神経の配列によって、からだを全体として補うような働きがそこにあるわけです。神経の配列だけをそこに見せるのではなく、神経の配列の仕方によってからだ全体としてあらわれてくるものがあるわけであり、そうした、或る神経配列によってからだを全体として補うようにして働くもの、そのことを「からだのアレンジメント」と今は言い表しておくことにします。
この「からだのアレンジメント」について言いますと、それを扱うのに二つのケースがあります。一つは、踊り手を振り付ける際に目に見えるアレンジメントです。自分以外の者に踊りを振り付ける際には、からだのアレンジメントは目に見えるわけです。それは、パフォーマンスとして実際に観察できるわけです。それに対して、自分で自分に振り付ける際には、からだのアレンジメントというのは目に見えない。そこに起こっているのですが、目に見えることがないわけです。アレンジメントとしては同じものなのですが、それを扱う視点が異なることで、その在り方が異なってくるということを強調したいわけですが、その目に見えないアレンジメントの方は、非常に複雑な仕組みになっています。というのも、自分で自分に振り付ける際には、或る神経の配列が生じると、そこに積極的に自分の意識が関わってくるわけですから、そこに意識が関わることがすぐさま新たな神経配列を生じさせ、そこにさらにまた意識が関わると新たな神経配列が・・・というふうにして、非常に複雑な、なんというか、生きていることそのものの局面に向き合うようなことになる、そう言ってもいいわけです。そういう意味で、目に見えるアレンジメントを扱う仕方と、目に見えないアレンジメントを扱う仕方とはまったく違うものなのですね。土方は、目に見えるアレンジメントを参照しながら、そこから反照し、そこから振り返るようにして、目に見えないアレンジメントに関わっているわけです。それが実際どのような状態であるかと、その複雑な事態について土方は言葉を尽くしています。
たとえば『包まれている病芯』というテキストがありますが、そこに目に見えないアレンジメントに向き合おうとしている土方がいます。土方がなぜ目に見えないアレンジメントを扱うのかといいますと、自分が踊っている状態をそのまま語りたいわけですね。なぜかといえば、踊りの「主体」とは何かという問題を見極めようとしていたからです。目に見えないアレンジメントに向き合うことは、何が踊りをさせているかということに向き合うことと同じことだと考えられていたわけです。ですから、舞踏符というのはどちらかといえば、目に見えるアレンジメントを扱うことによって舞踏符の技法として構築されたわけですが、一方で土方は、目に見えないアレンジメントに終始関わっていたわけです。むしろそちらの方にウエイトを置いていると言ってもいい。これは最初に言いましたように、「目で見ることが全体を隠し、目で見ないことが全体をあらわにする」という「闇」の原則に、土方は終始したがっているということです、忠実に。そのことを示していると思います。
それで、この目に見えないアレンジメントについて言いますと、たとえば舞踏符を稽古する場があるわけですけれど、舞踏符というのは、振り付ける者と振り付けられる者の両方が或る種の協同作業をすることで成り立っている技術です。そうは言っても、振り付ける側と振り付けられる側とでは舞踏符に関わる姿勢が違っていて、そこにはものすごく非対称的な関係があるわけです。つまり、振り付けられる側は徹底的に受身的でなければならないのです。いわば物になる。からだを物にするというのは、徹底的に受身的になるということです。そこでは自己という衣装を脱いでいなくてはならない。自己を解除していなければいけないわけです。そうした意味で、自己は忘れられていなければならない。土方の言葉で言えば、「自明でない自己」ということになりますけれど、そういう状態が要求されるわけです。
その一方で、舞踏符を振り付けられた後に、すぐにその内容をノートに書き留めなくてはいけないということがある。今習ったこと、すなわちからだに与えられた舞踏符の言葉、「肉体の闇」というその底なし沼的な言葉、そしてそれに対応する「からだのアレンジメント」を、ノートに書き留める作業があるわけです。いま振り付けられたことを自分のからだで振り返るようにして、いわば目に見えるようにして、描写するわけです。この記述作業は、舞踏符を稽古する際には方法上欠かせないことになっています。ですから、舞踏符を稽古する場というのは、ある意味で言えば、まず「自己の不明」なさなかで「からだのアレンジメント」に関わり、そしてすぐさまそれを描写するという、そうした異なるレベルの作業を交互にやっているということになるわけですね。稽古の場では交互にやっている。しかし舞台に立つときには、その作業は一つのものでなくてはならないわけです。そうしたことからすれば、踊りを踊るということは、ある意味で目に見えないアレンジメントに関わることである、そう言っていいと思う。そのことは土方の考えからすれば、「自己の不明においてからだのアレンジメントを描写する」というふうな状態にある、と言うことができます。そのときですね、自己が不明であるにもかかわらず、何が「からだのアレンジメント」を描写するのか、という問題があると思います。この問題に関わることが、ある種の病気性といいますか、「病」という問題として土方には考えられているのではないかと思います。この「病」というのは、『病める舞姫』の「病」のことです。
踊りの「主体」が何かという問題がそこにあり、そのことが、土方によって「病」と言い換えられている、というふうに考えられます。そしてこの踊りの「主体」が「病」とみなされるところに、土方が後期の表現へと押し出されていく契機があると考えます。
病というのは、からだの事物性、からだが事物であることを端的に示しています。というのも、病とは肉の反応だからです。私たちは、病にかかると様々な自覚症状を訴えます。たとえば痛みであるとか、疼きであるとか、熱であるとか。痛みにしても、鋭い痛みであるとか、持続的な痛みであるとか、鈍い痛みであるとか、そういうふうに自分のからだに起こっていることを言葉にして翻訳するわけですね。言葉にして翻訳する、つまりお医者さんへ行ってそういうふうに訴えますと、あなたはこれこれしかじかの名前の病気です、そう病名を突きつけられるわけですね、難しい名前で。そういうようにして、からだに起こっていることが、いわゆる病名となって診断されるわけです。
それと同じようにしてですね、土方は『病める舞姫』のテキストで、自分のからだに現在起こっている非常に微細な体験を、逐一言葉にすることで、からだのアレンジメントとして採集しようとしているわけです。むしろこの場合は言葉にしていますから、アレンジメントという情報として採集している、情報となって診断されている、というふうに言った方がいいかもしれません。そうした置き換え作業を、土方は『病める舞姫』の中で延々とやっているわけです。つまり、からだに起こっている微細な出来事を、「からだのアレンジメントという情報」というふうにして差異化しようとしているわけですね。その作業のさなかに、あらゆる物事が呼び出されてくるわけです。死者であるとか、埃であるとか、風であるとか、老婆であるとか、つららであるとか、様々なものがそこに呼び出されてくるわけですね、「自己の不明」に近い状態にあって。要するに、「肉体の闇」というのは、そういうような働きをするものなのです。
そして最終的に、土方がいわゆるからだの事物性というものを「からだのアレンジメントという情報」というふうにして採集する際に、そうした作業を延々とやっている際に、そこに呼び出されてくるその内容にこだわるのではなく、その作業自体にこだわるようになっていくんですね。つまり、からだの事物性を次々と「アレンジメントという情報」へと置き換える作業自体にこだわっている。次第にその内容よりも翻訳作業といいますか、からだの事物性を「アレンジメントという情報」へと翻訳する作業にこだわっていると思います。そうした姿勢が「病」を生じさせるもの、すなわち「病芯」であると思うのですが、そうした姿勢によって確実に土方の舞踏は、すなわち土方の後期の表現は、新たなものへと変わっていったのだと思います。
その新たな表現においては、「肉体の闇」のその底なし沼的な内容が前面に出てくるわけではなく、「肉体の闇」は舞踏表現にとっての燃料のようなものとして働くようになっている。翻訳の作業をかきたてる燃料というか、翻訳作業を活性化させる燃料として把握されることで、後期の表現というのは、具体的なかたちによる踊りが展開されるわけではなく、かたちがあらわれると思いきや消え、かたちになる手前で一瞬燃えたか燃えないかというような仕方で、ひじょうにその、ぼっと燃えあがる手前というような瞬間が繰り返されている。私は揮発、いわゆる揮発する、燃料が揮発するというような在り方を考えていますが、そうしたぼっという揮発状態にあるんですね、踊りが。それは、「肉体の闇」という燃料が揮発状態のまま扱われているからなのではないかと思います。踊りが揮発状態にあることにおいて、逆に踊り手の生の明るさといいますか、生きていることの明るさというものが前面に押し出されてくる、そうした表現になっているのだと、そういう印象を強くもっています。
ですから「肉体の闇」というのは、最初から一つのものではなくて、次々と変化しているわけですね。それは、言葉を意識する方向と身体を意識する方向という両方向に開かれているものであることで、たえず変化しているものなのだと思います。そのようにして、土方の舞踏の表現を支えているものとしての「肉体の闇」というものに焦点を当ててみることで、土方の舞踏表現、ひいては土方の舞踏の理念が、よりわかりやすいものになるのではないかと思い、今日は少し整理して話してみました。