土方さんに触りにいく、という山田せつ子さんのチャーミングな言葉に誘われて、改めて少しずつ著作や映像を辿り直し、研究会でレクチャラーの皆さんの発言にさまざまに刺激を受けながらも、やはり今更とはいえ「土方巽を語る」ことの困難の前で立ち止まっては行きつ戻りつを繰り返している。触りにいくための通路はいくつもある。にじり寄るように近づいていって恐る恐る手を触れてみると、確かな感触も得られないわけではない。だが、その触れた手の感覚と体の他の部分がうまくつながってこない、そんなもどかしさに苛まれてしまう。どうやらこの舞踏家を論じるためには、こちらにも新たな「身体技法」が必要らしい。
いたずらな神話化や神格化から土方巽を解き放ち、大学というユニヴァーサルな場(もはやそれを字義どおりに信じることはできないにしても)で、開かれた議論の対象とすること。この研究会の基本的な企図がそこにあることは、これまでも確認してきた。合理的に分析できることはどんどん分析すればいいのであり、それを躊躇すべきではない。しかし同時に、土方巽という存在が「普遍的」な知や論理では到底捉えられないこともまた、われわれにとって当然の前提というべきだろう。ただ必ずしもそれは、言葉/ロゴスの届かない身体の内奥に、「闇」や「暗黒」が隠されているからではない。
土方巽というスフィンクス。それを前にしてわれわれがまず忌避すべきなのは、「闇」を明るみに出すことで「謎」の持つ力をたやすく解消しようとしたオイディプス的傲慢だろう。アガンベンも指摘するように、オイディプスの罪は近親相姦よりも、「謎のもっていた不気味で恐るべきもの」を看過してしまったことのほうにあった。「朝は四脚、昼は二脚、夜は三脚」という謎に対してなされるべきは、「人間」という解答を与えることではなく(それは周知のようにオイディプス自身において覆される)、その不連続で複合的な身体のあらわれをそれ自体において思考することではないか。
言うまでもなく、それは「闇」をどこかに温存することを意味しない。「闇」についてなら、それが幻想的なものであろうと現実的なものであろうと、語ろうとすれば語ることはできる。むしろ解きがたい謎としてあるのは、たとえば晩年の土方が注目したセザンヌの「余白」のようなものだ。
絵画とは、描かれた図像のことではないし、基底材としての画布でもない。そのどちらでもない表層において絵画は成立している。「余白」は絵の下に隠されているわけではなく、先験的な所与としてあったわけでもない。すなわち、「ない」という形でしか現れてこないもの、そこにこそ「衰弱体」の微かな震えがある。単なる神話破壊が退屈な儀式でしかないのは、まさにその余白を消し去ってしまうからだろう。
踊らないこと、食べないこと、死なないこと。土方の否定形の実践に含まれる軋みを聴きとりながら、謎めいた言葉の前で「突っ立って」みる。おそらく「命懸けで突っ立っている死体」とは、「生きている」のではなく、「死なない」という否定形の身体であり、しかし同時に「死体」と対立を構成することのない身体なのだ。あるいは、話すことは(そして書くことは)断食することだと、カフカを引きながらドゥルーズは言ってなかっただろうか。『四季のための二十七晩』に向けた「食べない」という行為が、土方にとって単に肉体の物理的な「衰弱」に関わっていただけとは思えない。
言葉の地層を掘り起こしながらぐんぐん進んでいくような、土方の語り声を思い起こしてみる(第二回の研究会で話題になった「土着性」というテーマにはあまり興味を持てないが、東北地方の言葉が生み出すリズムや運動にはいつも惹かれている)。たとえば西瓜を食べることと、それを語ること。そこでは土方巽の舌や歯や唇はどのように踊っているのか。言葉と身体が引き裂かれる場所はどこにあるのか。
最初の研究会で唐突にプルーストの名前を出したのは、一つには「眠らない」という否定形の身体を召喚してみたかったからだ。眠っているのでもなく、目覚めているのでもない、半睡半醒、夢うつつの身体。そしてそれを語る言葉。土方もやはりまた「衰弱体」をめぐって、『日本霊異記』から夢の挿話を引き、夢の内容と語りの時間との隔たりに注意を促した上で、「醒めた時と夢とが二つにはっきり分かれるわけがない」と言う。
「うつつ」とは、まさしく空(うつ)の身体、あるいは器(うつわ)としての身体が現れる状態のことだろう。それはまた「うつす」ことともつながる。たとえば吉岡実の「引用」(『土方巽頌』)も、吉増剛造の「筆録」(『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』)も、「論じる」のではなく「うつす」ことによって土方を語る方法だったとすれば、二人の詩人が他者の言葉を書き写す手の動きを想像しながら、そのことの意味を改めて考えてみてもいい(ちなみに土方は『日本霊異記』の挿話について、それが藤井貞和に写してもらったものであることを強調している)。あるいは同様に、写真家や映画作家はどのように土方巽を写し/映したのか。
ひとまず少しずつ身体を移しながら、接しつつ離れ、触りに行きつつ遠ざかる、そんな舞踏的身振りを言葉に演じさせることを始めてみたい。