京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催
研究会 ダンス 研究と実験VOL.2 2009
土方巽~言葉と身体をめぐって

京都芸術劇場 春秋座 studio21

研究会の記録

土着性とジェンダー

渡邊 守章

渡邊です。自分としては甚だ場違いなところに来たという気がしていますが、山田先生と森山先生に、「土方巽くらいは見ている」と申しましたところ、それなら出なさいということになりました。

私が土方巽を見たのは1970年代の最初ですから、その頃の気分というか風土というか、そういうことを話せばいいかなと思ったのです。

というのも、当然のことながら時間は経っているわけで、土方さんの亡くなった1986年から数えても、ほぼ四半世紀は経っている。ベルリンの壁が取り壊されて二十年というのですから、今この大学の二年生――ここでは「二回生」と言うのですが――が生まれるか生まれないかという時点です。先月(10月)、中国の武漢で、クローデルという私が専門の一つにしている、外交官で劇作家・詩人についてのシンポジウムがあったのです。外交官になったのは日本に来たかったからなのですが、ニューヨーク、ボストンの後で、ようやく中国に赴任できた。清朝末期の中国ですが、領事補にはじまって、領事、総領事となる。十九世紀末から二十世紀初頭の中国ですし、フランスは中国に租界をはじめ様々な権益をもっていましたから、いくら第三共和国であっても、帝国主義の担い手である「列強」には違いがないわけで、いくら「二十世紀最大の劇詩人」で、「中国の文化に深い理解を示した」といっても、クローデルをテーマに国際シンポジウムをやるなんていうことは考えられなかった。

ついでに言っておけば、日本には大使として大正時代、つまり1920年代に来ている。外交官クローデルの専門分野は「通商」でしたが、大正時代の日仏間には通商的に重要な関係がなかったので、大使クローデルは「文化交流」という、その時点では誰も考え付かなかったことを使命とするようになります。しかし、中国ではそうではなかったので、例えば漢口、つまり揚子江を隔てて武漢対岸にある町は、当時、ヨーロッパの中国進出の拠点の一つでもあって、フランスはそこに鉄道の敷設権を手に入れている。領事補のクローデルはまさにその折衝に当たっていたのですが、現代から振り返って見ると、鉄道の敷設に貢献した人というので、評価されることになる。

武漢のことを言い出したのは、そこは揚子江が流れている。長江です。すごい川幅で水は泥水のようです。流れも速い。しかし武漢の長江がなんで有名かというと、文化大革命を始めるに際して、毛沢東がそこを泳いだのですね。泳ぎ切ったことになっています。毛沢東はそのあと、山にこもって詩を書いて、そこから「文化大革命」を呼びかけるのですが、その話を森山先生にしましたら、森山先生は知らなかったのですね。毛沢東が泳いだことを(笑)。それで、私は愕然として、林彪(りん・ぴゃお)が飛行機で脱出しようとして撃墜されたことご存知でしたが。つまり必ずしも記憶は保有されないということを実感したのです。

そういうわけで、土方巽の舞台は1972年から1973年の時期に見たきりなのですが――大野さんの方は近年まで見ていると思いますが――、その時期に見たという文化的な文脈のようなことを話そうと思ったのです。それに物書きとしては、フランスの総合文化雑誌で『エスプリ』という雑誌がありまして、現代日本の特集をやりたいと言ってきて、当時中央公論に塙嘉彦という、フランスの出版社や新聞社に留学していた編集者がいたので、彼が編集してその日本特集を作りました。そのなかで注目された二つの論文があり、その一つは、山口昌男の天皇制の話で、天皇制と被差別とが重なるという話。それからもう一つは、いわゆる「小劇場第一世代」について、そこを貫く「始原神話」という観点から私が書いた原稿なのです。その最後のところで土方さんのことを書いています。その意味では、たぶんフランスで土方巽という名前が活字になった最初の一つであったと思うんです。

そういう昔話――ほとんど「昔語り」に近づいていますが――をしようと思っているので、つまり「早稲田小劇場」、「赤テント」、「黒テント」、それに「転形劇場」をくっつけてもいいかも知れませんが、私にとってはまさに「同時代演劇」であったものが、今や40年も経ってしまった。問題は、日本と言う国は、歴史感覚に欠ける。だから、何か不変な伝統が連綿と続いていると考えるか、あるいはその時限りで、忘却の彼方に追いやってしまう。

そういう中で、1970年代の初めに土方巽という人がどういう風に受けとれられていたか、どういう風な出現の仕方をしたかを思い出しておくことは、多少は歴史感覚を取り返す役に立つかもしれない。

それで「土着性とジェンダー」というテーマを出したのですが、勘のいい人なら全部分かっちゃってしまうようなあからさまなタイトルです。

当時の観客にとって、土方さんという人は秋田の人で、如何にも秋田の「土着的」と思われるような「異形の風体(ふうてい)」をして踊る。なおかつその異形の風体は「女」なのですね。無精髭をはやして踊る女というのは、あの当時にしては、かなり衝撃的だった。

私の個人史的文脈で言うと、二度目のフランス長期滞在から、1969年2月に、大学紛争の「正常化」といわれている時期に帰ってきます。パリに2年半程滞在していて、68年の「五月革命」も経験しましたし、劇場の事件としては、いわゆる「1968年型演劇」という、「文化大革命」の余波とも受け取られた主張が、「同時多発的に」世界中に起きる、そのある局面を見てきた。演劇作業の上でそれがどのような形で現れたかというと、規存の制度としての演劇を全部否定しようということになる。その規存の制度の代表は、「言葉の演劇」であり、これは、1930年代にアントナン・アルトーの「残酷演劇」の主張、つまり「分節言語を廃絶した肉体の演劇」が廃絶しようとしたものだった。

例えば、のちに文化大臣になるジャック・ラングが主催していたナンシーの「国際青年演劇祭」というもの――これは、1964年に私が鈴木忠志の早稲田小劇場を連れて行ったところですが――ボブ・ウイルソン(ロバート・ウイルソン)がデビューしたことで知られています。そのフェスティヴァルを始めとして、当時は、「前衛的」と言われるようなイヴェントは、ほぼ裸に近い格好で出て来て、言葉にならない叫びを発して、ダンスでもパントマイムでもないような身体行動をする。そういう舞台が流行った中で、教祖的なアウラを勝ち得たのが、ポーランドのヴラツラウで「実験室劇場」を主宰していたグロトフスキーと、ニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェイから来たジュリアン・ベック夫婦の「リヴィング・シアター」であった。パリで最初に見た「リヴィング・シアター」はブレヒトの『アンティゴーネ』だったように記憶しますが、ぶっ叩くところは本気でぶっ叩くとか、役者の肉体を文字通り痛めつける。グロトフスキーの方は、チェスラクという役者を使って、彼を精神分析的に解体しながら、カルデロン原作の『不屈の王子』を作ってしまう。『不屈の王子』は見損ないましたがし、他の作品でも、パリに居ても見られない。1回に40人しか入れないで、演技エリアを塀で囲って、その周りから、「覗き」を逆手に取ったような形で見せるのですから、なかなか見られない。やや後ですが、サント=シャペルで演じた『絵入り黙示録』は見ていて、この頃からグロトフスキーとはわり付き合うようになった。

こうした「68年型肉体演劇」というものを見て日本に帰ってきて、いわゆる「小劇場運動」に立ち会うことになった。確かに似たところも色々ありましたが、日本のものはそれ程ラディカルではないと思った。たとえば唐十郎の芝居は、確かに赤テントでやっていて、都市空間の只中にテントを張って、一種の「反―世界」を出現させるという点では刺激的だったし、麿赤児とか四谷シモンといった「魁偉な」役者がいた。しかし、たとえば最初に見たのは、『腰巻お仙――振袖火事の巻』でしたが、マグリットの絵かなにかが装置に組み込まれていても、ドラマツルギーそのものは、シュールレアリズムでもなんでもなくて、結構律儀に近代劇だと思った。確か、滝口修造先生とご一緒したのだと記憶しますが。佐藤信にしても、劇作術からすれば、そう過激だったわけではない。一番ドラマツルギー的に過激だったのは、『劇的なるものをめぐって』の頃の鈴木忠志だったのかも知れません。ベケットなどを平気で引用するわけだけれども、今だったら著作権問題になるでしょうね。

テクストとの関係ではヨーロッパのように過激ではないなと思ったのと同時に、ヨーロッパで「肉体演劇」として、燎原の火のように流行ったものと違う点が二つあると思った。それが今日のタイトルにからんでいるので、一つは「ジェンダー」の問題、もう一つは「土着性」という問題なのです。

「セクシユアリティー」というと、ちょっと視点がずれてしまうので、ここでは差し当たり「ジェンダー」つまり「文化的性差」に焦点を当てておこうとおもうのですが、しかし、グロトフスキーの場合でもリヴィングの場合でも、セクシュアリティーが関係ないわけではありません。グロトフスキーでは、精神分析という、あからさまにセクシュアリティーに根を下ろしている技法を使うのだし、リヴィングの場合は、「性の解放」がその政治的メッセージの核になっている。しかし、目下、土方さんとの関係で注目しておきたいのは、ヨーロッパにおける前衛の「身体的担い手」が、女性ではなく男性であり、しかも男性である限りにおける男性であったのに対して、日本では、それが女性だった。これはとくに早稲田小劇場に白石加代子という異様な女優が出現したために、その印象が強いのかも知れませんが、精神分析の用語を借りて言うなら、「肉体の演劇」として性的エネルギーが「備給される」相手が、女性だった。私自身も実験的な形でラシーヌ悲劇をやりだした時には、ラシーヌは女の役が重要な作品ですから、やっぱり「ラシーヌ悲劇の詩句を言える身体をもった女優」をつくることから始めることになりました。観世寿夫さんとやっていた「冥の会」の時点では、「悲劇的女体」というのは、男優で発想しなければ出来ないと考えていたのですから、自分自身としても随分変わったのです。

そういう文脈では、ダンスあるいは舞踏というのは、ヨーロッパの記憶でいえば、基本的に女のものでしたから、どうするのかと思っていたら、土方さんは女の恰好をして出てくるわけですね。決して美しい女ではありませんが、とにかく女ではないとは言えないので。やや後の経験で言えば、大野さんは言うまでもありませんよね。つまり舞台上の「幻想の身体」というものが「女体」だ、しかもわざわざ男が女を演じるということが私はやっぱりショックだった。舞台上でエロス的な備給の場となるのが「虚構の女体」であったという点です。

もう一つの問題は、「土着性」です。ヨーロッパで、たとえばグロトフスキーはポーランドの土着的なカトリックの信仰の発想と深く関わっているとされていた。例の「中心と周縁」の理論でいうと、やはりヨーロッパの周縁的な空間から立ち上がってくる幻想です。

ところで、1960年代末から1970年代初頭までのいわゆる「小劇場第一世代」は、一方では「女性性」というものに備給することと並んで、「土着性」というものを強調した。つまり芸能の世界で「伝統的」というと、能・狂言、歌舞伎、文楽といった「公式の芸能」になってしまう。それは「封建制の遺構」として否定すべきものだし、特に明治以後のゆがんだ近代化のなかで生き延びたものはよくない。つまり極めて図式的な話ですが、近代化=西洋化によって抑圧された「土着的なもの」を掘り起こそうとする。四国の絵金が脚光を浴びるという例などを思い出せば分かりやすいかも知れない。

もちろん「伝統的なもの」を戦後演劇が否定した名高い例としては、やはり千田是也の『近代俳優術』を措いてはない。学生演劇まで含めて「新劇」のバイブルになっていたわけですから。「新派」などというものは悪の代名詞だったし、私は俳優座の養成所にいたわけではありませんから、後で聞いただけですが、何しろ歌舞伎なんてものは絶対観ちゃいけない。だから、70年代の南北ブームのなかで、俳優座が南北の『四谷怪談』をやるなんていうのは、革命的ですらあった。

制度化された伝統演劇は良くないが、そういう制度に組み込まれていないような、あるいはそういう制度に抑圧・排除の対象となっていた「土着的な」文化は良いといった、ほとんど戯画的と言ってよいような「被―抑圧史観」がまかり通っていた。そういう腑分けがあって、そういう雰囲気の中で土方さんの舞台を見ると、まさに「伝統」ではなく、「土着」なんですね。そうしたパラダイムで、小劇場の第一世代を追いかけるのと同じ気分で、土方さんを観に行っていたと思います。

そのパラダイムは、ヨーロッパと関わっている芸術家にも無関係だったわけではなくて、たとえば日本のシュールの草分けというか、長老であった滝口修造氏も、1969年型演劇とか土方巽とかは、よく見に来ていました。当時は、あんな偉い人まで整理券をもらうのに並ばせるわけですよね。寒い冬のさなかに赤テントをみるために、私は滝口さんと一緒に並んだことがあるし、当時の寿夫夫人であった画家の福島秀子さんと一緒に行列したりもした。

その時に舞台に立つのは男であり、この点では60年代ヨーロッパの前衛に通底するんだけれど、ただしそれは女としてやる。舞台の形象あるいは表象としては、女でなければならない。なおかつそのミュートス(物語)は土着的なものでなくてはいけない。これはずいぶん後になって、デビューした当時の勅使河原三郎が、西武の「スタジオ200」で白いパンツに白いシャツで、白い靴だかを履いて、全身真っ白な風体で、床に散乱するガラス片をばりばり踏んで、そのうちだんだん血が滲んでくるというような「残酷演劇」とは違うんですね。

私自身は生まれも育ちも東京ですので、そういう意味で言うと私の「土着的なもの」というのは、東京の下町ですが、まあ、正確に言えば下町と山の手が共存するような赤坂ですから、芸能の上で言えば、江戸の歌舞伎とか音曲とか、あるいは落語になってしまうわけで、土方さんのような「土着的なもの」は持っていない。土方巽を観に行こうと誘ってくれたのは、この間亡くなった劇作家の石沢富子で、長いこと白水社の『新劇』の編集者をやって演出に転じた石沢秀二の奥さんですが、彼女は青森の生まれで、恐山の巫女の末裔というのは嘘で、ただ、母上が神がかりして予言するような人で、なんでも鰊の大漁を予言したので有名だったそうです。そういう血が娘にも伝わっているなどと言われていて、それがなにか本当らしいような人が石沢富子だったのですが、カトリックに改宗してもいて、土着的と言っても随分バタ臭いところもありました。そういう人に連れられて、土方さんの舞台を観に行ったのだと記憶します。

こういう訳で、自分のもっていない、いわゆる土着的なものというものがそこに舞台表象として見事に立ちあがっている。見事にというだけではなくて「美しく」って言ったほうがいいと思うんですね。というのも、写真で見ると、土方さんは美しくないんですよね。大野さんは美しいんだけど。だけど動いていると土方さんは美しい。あの美しさは何だろうと思うくらいのものです。それでさっき、森下先生が舞踏譜の話をなさいましたけれども、あぁなるほどなと思ったんですね。つまりあの舞踏譜を踊れば土方巽を踊ったことになるわけではないでしょう。デモンストレーションやっている人にしても、譜面と譜面を繋ぐことはちゃんと考えてやっているわけで。そうすると、土方さんが何を考えてその譜面を残したのかは分からないのだけれども、分からないんだけれどというのは言葉の綾で、演出家としてはよくわかるんです。肝心なことは、あの譜面と譜面を繋ぐことなんですね。これは世阿弥が「万能(まんのう)ヲ一心ニテ綰(つな)グ感力」という言い方で表したものに他ならない。つまり一曲の能を演じるためには、それこそ一本の絹糸をピーンと張っているみたいに、前後左右も全部知覚しながらピーンと張っていないといけない。土方さんの舞踏というのはそういうものだったと思います。だからそういう意味では、非常に日本的だと思うんですよ、言葉の最良の意味において。

芦川羊子とか、あるいは別の意味でカルロッタ・池田を見ていても、そのように一本筋がピーンと通っている舞踏は私は好きでした。だけどそうじゃなくて、ただ型真似だけの、白く塗って、ふんどしをして、おどろおどろしい型真似だけの舞踏というものは嫌いだし、興味もないし、見にも行きません。
そう違いが、映像だけでどこまで分かるかなという気がします。

「ジェンダー」と「土着性」という問題の立て方自身、極めて図式的で、近代演劇において抑圧されたものを回復するというほとんど進歩史観で説明がついてしまうし、事実その手の進歩史観から人々は自由になっては居なかった。なんと言ってもサルトル万能の時代で、構造主義より前ですし、かろうじてメルロ=ポンティが読まれるようになったくらいです。フーコーが『性の歴史1――知への意志』で「抑圧理論」の神話破壊をする遥か以前でもあった。そういう時代だから、いま言ったような抑圧の仕掛けが通用したんだという思いもあります。

ともあれ、アルトーの系譜にあるはずの「肉体の演劇」が、男性の身体を舞台とするのではなく、女性の肉体に備給する――正しく言えば、女性の肉体という表象を特権視する――しかもその際に、同じく特権的な表象として「土着的なるもの」が取り上げられたという現象は、思い出しておくべきことだとは思います。