京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催
研究会 ダンス 研究と実験VOL.2 2009
土方巽~言葉と身体をめぐって

京都芸術劇場 春秋座 studio21

研究会の記録

ディスカッション

山田
昼からずっと映像を見て3人の方の話を聞いて、長い時間でしたのでちょっとみなさんお疲れかと思いますけれども、楽しく進めていきたいと思います。

私は昨日『疱瘡譚』を久しぶりにフルバージョンを見て、やっぱりまた新しい発見がありました。それは、特に前半がこんなのんきな空間というか、ある意味でふんわりした陽溜まりのあるような身体を舞台にあげている時間だったんだなと思いまして、それがとっても魅力に感じられました。

その陽溜まりの中に逆にすごく微細な身体というか、あの不可思議な間と間のリズムの中に闇というのか、謎がすごく感じられました。中盤から後半の土方さんのソロとの対比がすごく面白く、若い時に私はあれを見たんですけれども、もっと恐ろしく、最初から最後まで緊張して見ていた気がするんです。けれども、なんか不思議な豊かさを昨日の作品の中で感じて、とても発見でした。
あと、今日、映像で見た芦川さんの舞踏については、なぜか昔見た時の印象と鮮明に同じっていう感じがしたんですね。映像で見ても芦川さんの踊りの凄さっていうのは確実に見えて来る。すごいなあと思って見ていました。

土方研究会を6月、10月と進めた中でいろいろな言葉が出てきました。「神経」という言葉が森下さんから、「後半になると土方は神経に振り付けをしていった」っていうお話があったんですけれども、そういうものが今日は芦川さんの身体を通して見えてきたような気がしました。水滴がね、人の体の中の神経に落ちて、それが体の中にこう波紋を起こしていく様な、それが結果的に形になっていくような部分と、明確に形として踏み込んでいく両方の部分が往復しているような感じがして、魅力的なものをまた思い出した所です。

で、その後皆さんの話を伺いながら大変だなあというのが正直な気持ちで、土方さんに触りにいくというのは本当に大変な事なんだなあ、という事をやっぱり思いました。 学術的と言ってよろしいんでしょうか。研究的と言ってよろしいんでしょうか。

稲田さんの向かい方と、それからもうちょっと生な批評現場的な森山さんの視点と、それからまさにものをそこの板の上でつくっていらっしゃる三浦さんの向かい方。その方達の話がどこでどういうふうに結びつくのだろうか。結びつかなくてもいいんですけれども応答し合えるんだろうかっていうことを途中で思ったりしました。

まずは最初の三人のお話で、質問とか関心を持たれたこととかあったら、どんどん発言してください。中盤からも区切らずに研究会にご参加頂いている方も、会場で今日聞いて下さった方もお手を挙げていただいて。マイクを運びますので、どんどん御発言頂いて渦ができていたらいいなと思っていますので宜しくお願いします。
森山
ちょっと三浦さんに質問を。
『病める舞姫』も含めて、パフォーマンスとして一種の小さなピースとして構成するというのは非常に面白かったんですけれども。この間の太田省吾さんのテクストに関しても三浦さんは多種なアプローチをしていて、今回の土方のテクストの場合はどの辺が入り口になったかっていうのをちょっとお聞きしたいんですが。
三浦
土方のテープがあって。あれ何でしたっけ?
山田
『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』です。
三浦
そうです。今日もそこの部分を読んでいましたけど、あのテープを聞いたのが最初の入り口になったかな。そのテンポとかリズムが先にありました。

まあ、今日のは敢えてそのパフォーマンスを前提として思考するというよりも、もう少し言葉の意味の方からアプローチしてみようっていう事で、「闇」っていうのから入ったっていうのが正直なところです。別に、「闇」に何かイメージがものすごくあって、それから土方のコラージュ作品を作りたいとかとは全く微塵とも思っていません。現時点では。
森山
「闇」っていう言葉は、キーワードの一つっていうくらいの位置づけだったんですね。
三浦
まあ、もうちょっと強いイメージあるかもしれないです。やっぱり舞台が、陰影があって。舞台っていうのは別に演劇、ダンスに関わらず、陰影があって、何か底見えないものを見るみたいな観念的なイメージ。悪い意味でねっていうのが凄く染み付いているもので、自分の中にも。

具体的な言い方をすると、照明落としておけば何とかなるみたいな感じってあるんですよね、舞台ってなんか。判りやすく言えば雰囲気があるみたいな…ということもあったし、その闇の中には。

土方の文脈で言う「闇」とはちょっと違うかもしれないんだけれど、でも何かそういう事もあったし、それから闇をむしって喰うとは良く言ったものだというか、その、詩人としてね。悪い意味でも良い意味でも。言えば良いてものじゃないだろうっていう反発と、でもそういう事だよね、みたいな。

あなたの中に姉がいるんでしょ、みたいな感覚ってやっぱり見てて分かるし、その文章に触れていなくても、映像でね。ということから存在ってどういう事だっけ、みたいな事がまあきっかけにはなっていますね。
森山
私もその、反発っていうわけでは必ずしもないんだけれど、三浦さんのおっしゃる感じはわかる気がします。読んでいると、何か、書物の向こう側から、読めるものなら読んでみろ、って言われている感覚かなあ。けれども同時にまた、そういう挑発に対して、「どう読めばいいんだろう」って素朴に深刻に考え込んでしまう、っていうのもちょっと違うんじゃないか、という気持ちにさせられるところがたえずあります。それは、挑発に対する、私の中で起こってくる一種の反発なのかもしれません。

土方さんが生きている当時、目の前でこういう言葉が発せられたら、さぞかし怖かっただろうとは思うのですが、でも、こうして土方さんが亡くなって、不在となった今でも、原理的にはあまり変わらないというか、要するに、こちらがどのように受け止めて、何を投げ返すかが結局は問われているのかなあ、とも思います。

活字だけみても、挑発性みたいなものがはっきり感じられるし、こちらも一瞬ひるんだり、目を背けたくなったりする部分は正直いってあるわけですよ。何でこんなもの、読まなきゃいけないんだよ、みたいなね。でも、そういうことの一切合切を含めて、そういう自分の姿もどこかで意識しながら戦いを挑まされる、っていう感覚が、私が今、土方のテクストを読んでいるときの率直な実感なんです。そういうところをなんとなく武装解除しちゃって、ポエティックな側面だけに注目して、いくらでもこの言葉で遊んでいいよって言われているような錯覚に陥るのは、逆に深い罠なんじゃないかと。

だから、土方さんの言葉を受けて、そういう自分はどういうポジションに立つのかっていうのは、今でも迷いながらという感じです。稲田さんは、一応「研究」というスタイルを通して触っていらっしゃるんだと思うんですけどね。でも、今日は割と全体を語っていただいたように思いましたが、「読めない」部分ってたくさんあると思うんです。その辺の稲田さんの文体の感じ方みたいなところは、ちょっと考えたいなと思ったんですけど。
稲田
文体の感じ方っていうのは、本当に私身体的な人間なのであまり理論的にお答え出来ないかもしれないんですけれども、やはりその凄く身体感覚として伝わって来るものが等しいということなんですね。

あまり下手に現代思想とか持ち出したくないんですけれども、ドゥルーズあたりが言っているような欲望する様な身体が実態としてあるんではなくて、その中でいろんな欲望や感覚や記憶が接続していくっていう、そのイメージが『病める舞姫』の中で、私は言葉を一つずつ身体で反応していくとあるっていうことですね。そのようなものが土方がソロをとった『疱瘡譚』のバラバラに動くところにあるということは最初の私の研究のスタートなんです。

前回の研究会に参加させて頂いて、舞踏譜もそうですけれども、あの時代の舞踏譜というのは非常に具体的で、まだリアル、形のあるものですよね。それがどんどんどんどん神経というふうに、もっともっと微細に微細になっていくという所が今日の白桃房を見ると分かって来る。やっぱりそこの微細になって来る言葉、でもそれをやればやる程、身体が記述化してしまってスタイル化してしまう。それをいかに壊していくかという過程がやはりもうすこし長い意味で、その神経の所まで追ってみると更に土方の像というものが。私がやったのは60年代と70年代の比較をまずやろうと思ったんですけれども、その先がこれから出て来るかなと思いました。
山田
今の神経の話ですけれども、芦川さんと他の舞踊家の方って全く違いますよね。なぜ芦川さんの身体は土方さんの言葉を受け取り、あのような状態になったのか。才能の問題もあるでしょうけれど、振付家と舞踏手との関係性において、何が重要だったのか。言葉で振り付けを渡されていく時にやっぱりただ言葉をもらえばいいんではなく、その言葉をどう受け取っていくと身体がああいうふうに変容していくのだろうと凄く思いました。

あと、女性の舞踏手と男性の舞踏手は随分違うな、と思いました。女性は振動が細かいというか、男性はテンションが荒いというか。だから三浦さんの言葉の今日の実験みたいなものがどういう方向に行くのか。使っちゃえっていうのは、いくらでもありだと思うんですね。土方さんの言葉を使って面白いことをやっちゃえっていうのはいくらでもありだと思うし、それもあってもいいと思うんですけれども、そういう言葉を石田さんが今日発語してくれた時に、身体の中でどういうことが起きて来るのかなっていうことには、興味はお持ちにならないんでしょうか。
三浦
まずその前の前提として、芦川さんが凄いのは見た目分かるわけ、凄いって。それは乗り移ってるのさ、分かりやすく言うと。その言葉の振り付けで乗り移っているのか、あるいは何なのかは知らないけれども、そういう事っていうのは往々にしてあると思いますね。それは良くある奇跡と言っていいと思う。

けれども、何て言うのかな、見られているわけだから、見る。見るの駆け引きでそういう巡り会いっていうのはあると思う。それと男の人と女の人のその群舞の有り様が違うっていうのは確かに違うと思う。今、私は昨日見た『疱瘡譚』を中心に話していますけれども、全然違う在り方として在ると思う。それは。でも分からないけれども、想像するに、芦川洋子という人が群舞の中心にいる中から、また発生する関係性も出て来てしまうし、男の人への振り付けがおそらく、暴言を吐きますけれど、あんまり興味が無かったと思います。あんまり。土方自身はね。

『正面の衣装』を2回見た事があるんですけれども、今日、改めて見て、いけてんじゃん! と思ったわけ。何でかなって技術的に見ると、ゆっくりだから。ゆっくりだし、あれは群舞だって思ったね。逆に僕は『疱瘡譚』の女の人のは、あれは群舞じゃあないっていうか。でも舞踏って、群舞って何?って思っているのか。今日の話でもバレエと比較されていましたね。バレエっていうのは絶対にズレないから、あれは群舞なわけ、でもやっぱりズレを前提として作っているから、明らかに。明らかにズレを前提としているんだけど、一見同じことをやらせているわけです。で、それを群舞って言っていいかどうかっていうところを考えながらまず見てた。

男と女の違いっていうのはちょっと乱暴な言い方をしたけれども、まあ違いはあるという事ですね。その関係性と言葉の問題、例えば今日やったようなことをちょっときっかけにして、この土方の言葉をどう扱うか、どう舞台に乗せるかっていう事は、今僕が持った感想と凄く必ずリンクしていくもので、まだ今日読んだ俳優の中には浸透はしていない訳ですよ。浸透していないだけの話なのね。それはいつの間にかに乗り移ると思う。だからそこに興味があるかないかって言われるとそこにしか興味がまず無いです。

ただ彼がね、今日、どうする? 普通に読む? 何かする? って言うわけですよ。普通はまずいって、みたいな事は言う訳です。で、揉めたのはマイク使う? 使わない? っていう事。だからそれは何を言っているかっていうと、出力ですよね。普通に言うっていうことは棒読みで、普通に言うっていうことは出力の仕方、あるいは、このマイクを使ってしゃべるかどうかという外側の事しか話し合っていないんですね。内側のことは話せないわけ。やろうとした事はへたくそで申し訳なかったんだけれども、なぜこうズレていって、途中で一緒になるかっていうことはちょっと群舞への思いっていうのがあったわけ、僕の中で。

だからどうせ揃うわけが無いんだけど、あたかも揃った時に怖いわけ。だから多分そういう気があったから土方は作品化したかったし、やっぱり『疱瘡譚』でも最後、女の人に土方と全く同じ音楽で最後群舞に振り付けをするんだけど、その振り付けっていうのが、ただ立つだけですよ。しかも3、4人かな。ただ3、4人で立って口を大きく開ける、それは感動しちゃうんだよね、私は。何に感動しているかって言ったら土方の振り付けに感動しているんじゃあなくて、土方がつくったその作品の中にある物語性に多分感動しちゃったんだなと思った。で、そういう仕掛けっていうのは作品化においては必要だし、土方じゃなくてもいいんじゃんっていう主体ですね。土方っていうとちょっと偉大すぎて誤解が生じるので、主体性を失っていくっていう事かな。その事は、土方は疑ってやまなかった人だし、そういうエクリチュール、文体になってるよね、内容も。特におっしゃていたように、どう読んでいいか分からないことが、あると思うんですね。

今日、僕ばかりしゃべっていてすみません。稲田さんの聞いていて面白い分析だなって思った事が、まず年代的に分けたっていう事がちょっと面白くて。その中でやっぱり『刑務所へ』っていうのは僕も一番気になっていた題材なんですね。今日はちょっと止めといたんですよ。彼にも読んでもらって、どこか無いかって、闇は書いていない一切。闇の事は書いていないけど、多分ここらへんがポイントになるんじゃないの、土方をやる上で。っていう多分そういう直感はあったんでしょうね。『刑務所へ』のところでカギ括弧で僕という主語を使って書いたっていうのは凄い発見だなって思って素敵だなと思いました。

で、そのことをちょっと知らなかったんですけれども、三島(由紀夫)の影響とかがあったとか、時代的背景っていうのがあったとか思うけれど。いずれにせよそういうデリケートな資質を持ちながら主語を変えていく。そういうことっていうのはその土方の中で凄く面白い題材として考えていっていいのかな、って言うふうには思いましたね。
稲田
ちなみにそれを付け加えると、さっき言えなかったんですけれども60年代という時代は、「僕」という主体がはっきりして、ああいうふうな硬質な文体で進んでいくんです。けれども『病める舞姫』になると「私」になるんですね、主語が。

で、その「私」というのは、前半は結構「私はこうであった」というふうな書き方で進んでいくんですけれども、進めば進む程「私」という主語も無くなって本当に感覚、なんか部分の感覚の経験羅列、そういうもので進んでいくっていうものがありますね。あと身体っていうものも確か60年代は「身体」とか「肉体」とか書いているんですけれども、『病める舞姫』になると平仮名で「からだ」って書くんですね。だからやっぱりそのような語彙の使い方からして土方は非常に巧妙に考えているなっていうふうに思っています。
山田
もう皆さんも加わっていく方向に行きたいと思いますので、何か質問とかご意見があったら手を挙げて頂けますでしょうか。随時お願いします。無ければどんどん続けて下さい。
宇野
あのまず稲田さんに。今日出て来なかったっていう話があると思うんです。それは顔の問題なんですかね。あの芦川さん、やっぱり表現の中で顔をつくるという、もう非常に微細な単位でね。顔を変えていくっていう。土方さんもそれやってはいると思いますけれど、大体あのヒゲを生やした男っていうのは、あれは表情を隠す。男のヒゲって表情を隠す、弱みを見せない為のものっていうところがあるんだと思うんだけど。

やっぱり女性にあれをやらせ、まあ男も『正面の衣装』では少しやっていますけれどもね。ですが、おそらくその顔というものの存在と身体の関係というとても面白いし複雑だと思っているんだけれどもその事に関しては、稲田さん、博士論文も書かれたようでどうお考えなんでしょう。どういう位置づけになっているんでしょう。

それから三浦さん、結局、演劇の問題立てておいて、土方さんはやっぱり、注意深く演劇に手を出さなかった人と思いますよね。今、演劇とかダンスとか割と簡単に融合する傾向にあるんだけれど、注意深く演劇を避けた土方巽がいるんじゃないかと。だけど『病める舞姫』を見ると実に多くの声があの中にある訳です。実に多くの声がありながら「私」ってやっぱり言っている。土方さんのトーンていうのはずっと一環としてある訳です。これとっても矛盾したものを、森山さんの言う不条理をね、そこにも見る事が出来ると思うんだけど。この問題に関しては声の問題、それから演劇に手を出さない土方巽、そこで身体と声っていうのはどうなっているかというような問題が多分あるなと思うんですけどどう考えますか。
稲田
「顔」の問題ですけれども、実は私、顔の事は考えていなかったんですけれども、今日久々に白桃房の映像を見て、これはちょっとやらなきゃいけなかったなと思い直した所だったんですね。ただ今日見ていてあまりにも変わる事の面白さがあると同時に、顔が変わりすぎると身体への視線がそがれてしまうということ。見ていて顔の表情に意識がいって、観客からも身体への視点がそがれてしまうような危険性をはらんでいるなと思いました。もちろんそれを突き抜けるものがあると思うんですけれども。

その「顔」の問題ですけれども、技術的には芦川さんが歯を抜いたんですね。だからあれだけ激しいというか、凄く凹んだりへこんだりいろんな顔が出来る様になったんですけれども、やはりそこは先程の段階を経ていて次つぎやった時に、その身体をこうバラバラにしていったそれが細かくなっていった、そしてそれが顔にもいっていったというふうに、ひとつの彼の微細になる過程のひとつに顔も入っているのかなというのを、今日は思いました。
山田
では顔が変わるっていう事はある意味で非常に演劇的な要素というか、そういう世界に繋がるっていう感じはないですか?
稲田
そうそう、私さっき思い出したんだけど、あんまり顔が変わると変身したっていう風に思われるということが、ある種の危険なのかなって思ったんです。

変身っていうことは結局そのメタモルフォーゼとすると、ある人格からある人格に変わったっていう風な変身をその顔の表情から捉えがちになる。むしろその変身という―人格から人格へ、じゃなくてむしろトランスフォーメーションしていくような。ただ形が変わっていくという人格になる以前のトランスフォーメーションの仕方としての顔の変化ではないかなとは思っています。
山田
なんかお能の舞台での光によって顔の表情が変わるっていうのに、近いような気が。あの土方さんの顔の印象っていうのはあったんですけれど。
三上
ちょっとはっきり記憶が無いんですけれども、伝統芸能が捨てたものを拾ってきた。顔を捨てた、お能にしても。そういうようなものを拾ってきた。だけど能面の裏側を見てる。その能面が焼け跡の中で立ち上がって来る廃墟をその能面の裏に見たっていうような事を聞いたような、読んだような記憶があります。

あとやはり一人芝居でも、演劇の身体はやはり関係性だと思うんですね。やっぱり踊りの身体はどんな群舞をやっていても私はそう思うんだけど、ソロ。自分の身体との関係の中の延長として他者はいたとしても、そこで演劇の身体と舞踊の身体は全く違うもののような気がしますけど。
山田
その顔の事について、他の方でも何かご意見あればどうぞ。
三上
顔の中の毛細血管をこうして、皮ひとつ剥いじゃって毛細血管を出して毛細血管に電流が走るみたいな事が。
山田
そういう言葉が土方さんから、芦川さんからあったと。
三上
土方さんから。
森下
日本の伝統芸能では顔を見せるっていうのは、もちろん下品だからやりませんけれども、土方は敢えてそれに挑戦して、まず百面相をやるところから始めている。
客席1
顔がやっぱり変わらないと生な人間になってしまうと思いますね。やっぱり顔があれだけ変わって、あれだけ、そのものとしての身体がそこで見えてくるわけです。所謂その誰が踊っているかわからない何かがそこで現れて来る訳です。顔が変わらないと、そこに人間が立っているだけですからね。そういうひとつの舞踏の表現というのは全体的なものだと思っていますから、顔もそういう神経の配慮をしないと、そこにそのものとして表すそういう表現が成り立たないという風に考えますけど。
森山
パーソナリティーを背負うっていう意味での顔では全然なかったということですかね。いかにパーソナリティーを背負う媒体としての顔ではない顔でありうるか、という方法論だったように、今の三上さんの話を聞いていて思いました。

じゃあ、演劇はパーソナリティーと不可分なのかっていう問題が、演劇の問題としては、また次に出て来るんですけど。
山田
あの、観客席に現役で舞踏をなさっている桂さんいらっしゃっていますからいかがですか?顔の稽古とか。
客席2
顔もやっぱり肉体の一部なんですね。顔のバーレッスンとかもやっぱりやるわけですよ。例えば和栗さんの舞踏譜っていうんですか、その中に有名な画家のベーコンの1とか2とかあって、つまり顔自身がベーコンが自画像を描く時ってシェービングクリームをざっと塗ってそれでそういうものを描くっていうふうに聞いたんですけれども。つまり顔もひとつの肉体の踊りにすると。

だから例えばベーコンの顔位置だとこっちからのこういうのがあって、こういうのがありますっていうふうな、そういう意味で僕は使わせてもらっていろんなグループで顔を作ってですね、それなりの音楽を使って顔だけで踊るっていうような事も結構ありますよ。

ただ僕はやっぱりさっきそのパーソナリティーを消すとかおっしゃっていましたけれども、ただ顔っていうのは肉体の内部から出て来た結果としてね、顔が無いと単なる表現でしかないという感じがします。
山田
ありがとうございました。
三上
後から出ると思うんですけれども、土方さんの訓練を受けてない人達、フランスの本にも麿さんはもちろん野口体操でやっていたんですけれども、あと田中泯さんなんかもあの本を見るとベースに置いてるなって思う。

野口さんは、顔は外に出た肛門だって言うんですね。一本の管だから。それで自分の顔を一本の管にして、お尻から、管にしてそれで顔を肛門なんだから、うあーって声を出したりっていうことをして、野口さんと土方さんの肉体に対する可能性へ賭けた賭け方は非常に近しいものがあって、野口さんは土方さんのことを私の本を通して知って、70年代に対談を予定されたそうなんです。何かいかがわしい感じがしたから断ったと。それは当然なんだけど、私の本を読んで、興奮して電話を下さって、三上さんが考えているよりきっと土方さんは凄い、もっと大きな人だっておっしゃってました。
山田
ありがとうございます。
じゃあちょっと声の事に関しては三浦さんいかがですか?
三浦
まあ、でも顔の事と近いけど口でしょ、今のお話でもそうだし、肛門だっていうのもそうだし。だから顔は相当重要ですよね。能面の話にしてもね。

いずれにせよ顔は無視できない。で、声の問題ね。あの大きい意味でね、ダンス舞踊、舞踏、ダンス、と演劇、セリフをしゃべる演劇というのは全然身体は違うと思いますよ。何が違うかって言ったら単純で、しゃべるかしゃべらないかだけです、違いは。 だけどよくよく見ると、例えば昨日の『疱瘡譚』見ていると、決定的に違うのはその音楽がずっと流れているからね。音楽というか、風が流れたり音楽が止みました。何か下駄の音も含めてずーっと物音がしている、それは演劇にとってはそれはずーっとセリフをしゃべっているのと一緒ですから、暴力的に言うとね。それがもう全然違う訳です。

その身体性が違うっていう言い方を補足すると時間の感覚が違う。ずっと音楽が流れていますから。その事は端的に全然違うと思います。身体が違うんじゃなくて時間の流し方が違うと。確かに今日おっしゃっていたように昨日の『疱瘡譚』は秀逸だと思います、音響プランは。もう本当に上手く出来ていると思うのね。上手く出来てるし、すっと引く所は引いてでも基本的にはずっと鳴っている。何を言っているかって言うと音楽の物語がもう出来上がっている訳です。で、驚いたのはそれを音楽流さないで稽古するとか、いろんな手法をやっぱりやっているっていうことはそれだけ意識しているっていう事ですよね。どこに時間を流すか、どこの時間に自分の身を浸すか。ということをやっぱり意識している。

で、言いたい事は土方の、僕は数限りしか見ていませんけれど、究めて演劇的だと思っている。音楽に合わせて何かどうこうするっていうよりも、音楽を受動する力っていうかな聞いていると言ってもいいと思うけれど、見せる身体じゃないという言い方と似てるんだけど、見られている。つまり音楽が外側から流れて来ているのがまずある。受け止めているというか聞いている時間というのは非常に所謂音振りで、音があって音のジャジャジャンっていう物語性で身振りがピタッピタッピタッって決まるような形で、音楽に乗っかっているっていうダンスとは違って、明らかに受動しているという事ですね。

そして演劇の話になると、演劇ではできるだけ顔を変えないほうがいいわけですね。なぜならば声を出しているからみなさん今僕の顔を見ているでしょう。僕のココとか見ないでしょう。僕はしゃべっているからですよそれは。しゃべっているからね。で、僕の顔を見ている時に出来るだけ正確に、正確にっていうと難しいけどセリフをできるだけ敢えて言うと色をつけずに、どんどこ言った方が良い訳です。内容をとにかく。これは僕の考え方ね。僕の考え方だけど、従来の演劇っていうのはそういった心理面を上乗せしていくって事にやっきになって頑張った訳です。だけど能とかまで帰っちゃうと表情とか変わんない訳ですよ。一応人もしゃべりますからね。何か言っている訳ですけれども、そこには見えない訳です。顔。だから、想像力が膨らんで変わらない顔に何かを、イメージを膨らましていくという事ですね。

だから演劇の場合は変わらないほうが良いんです。表情は出来るだけ。じゃあ何が変わるのかって言ったら、音楽が変わるべきなんです。音楽に殉ずるような時間の感覚が変わるべきだっていうふうに考えています。それは演劇の場合はセリフだ、つまり吐かれる言葉だっていうことですね。そこには言葉っていうのは究めて複雑で、悲しいとか言ってる場合ではない言葉もあるし、悲しいと単刀直入に言う時に感動しちゃう時もあるかもしれないし、物語の進行に即している時もあるかもしれないし、とかっていう形でいろいろ複雑なんですね、言葉の方が。言っちゃあ悪いけど、身体よりも。っていうのが僕の居方。

だけどさすがにそして土方を見ているとさすがに複雑だから、おおって思うよね。そして顔が変わっていたりすると何枚のピクチャーを見せられるんだ。もう、めくるようにめくるようにやっている訳ですよ。

それはそうですね、舞踏譜とかでも昨日俺凄く面白かったのは、三上さんがバラバラバラっておっしゃったんですね。で、あれはもうベケットのラッキーじゃないか、『ゴドーを待ちながら』のラッキー状態だ。で、そういうふうに自分を集中する為に行くんだって。あの情報量っていうのは相当なものなんですね。

その事とセリフを取り上げる、いじるっていう言い方は、僕は好意的に捉えて欲しいんだけど、なんでも材料になると思っている訳。そう思わなかったら出来ないと思っている訳ですよ。それは選びますよ。誰か信用できる人が土方の文章面白いぞとか言ってくれて、少し後押しされる訳ですけど、そうなった以上なんでも扱えるんだと。って言うくらいのつもりじゃないと、それだけの変容をするような状況っていうのは、なかなか作りづらいですね。そういうふうに捉えている。だから敢えて言うと声の問題っていうのは声の表情とか声の色、そして感情、心理面、情報面、幾らでも言葉は出てきますけど、声の扱いそのものっていうのは、非常に今初めて言いますけれど身体性を伴っている訳ですね。ということがまずひとつあります。その可能性としては、土方のその多様性っていうかな、主体の多様性っていうのはひとつ、僕は間違っていない様な気がする訳。今日やったやり方とかの発想、入り口、方向性ですけど。センスっていうか方向性は、いけるかなっていう感じがちょっと思っていて可能性を感じているっていうこと。

それともうひとつどうしても言っておきたい事は、土方巽って本名なの?違うでしょ。これ凄く重要な事だと思う訳。つまりさ、「土方巽」なんですよ、舞台にいる。それは主体性の問題ともあるし、これは単に芸名をつけるとか、その流行り廃りの問題ではないと思う。やっぱり芸名っていうか「土方巽」なんですよ。というか、フィクションなんですよ。そこを設える訳ですね、自分との距離。役者で芸名つけるっていう人もいますけど、あんまりいないですよそんな人。だって別にハムレットだっていいんだもの。基本的には。それは演劇の中では男1男2とか変遷がある訳ですけれども。基本的には役者は実名で良い訳です。だけどそこには乗っからなきゃいけないフィクションが有るし、対象化しなければいけない相手がいるから。従来のですよ、演劇の考え方。でもダンスってやっぱり実名と主体とかっていうことをモロに受けちゃうんだな。だからモロにイメージっていうのが投入される訳でしょ。そこが決定的にちょっと、むしろ僕はダンスと演劇っていうのは違うんじゃないかていうふうに思う。芸能人はね、今でもメディア、媒体に出ている人達はもちろん芸名つけますよ。それは、それ程フィクショナルだからね。ということをちょっと今日感じましたね。身体性と伴って名付けられる事ってことですけど、その違いは大きいんじゃあないかなあ。土方ジュネとか名乗ってたらしいからね。
森下
今おっしゃったように土方は何度か名前変えているんですね、名前変える度に何かあったんですね。で、土方巽で固定したっていうことはもうこれで、ほぼ自分の役割っていうのが決まってきて、土方巽を演じるということに、これは彼の着ている衣装も、普段の着物、洋服、そういったことも全て関わっていて、髪の長くした事も、鼻を高くしたことも関わって来ています。
森山
もう少し三浦世界に遊びたいっていう感じもするんですけど、ちょっと先程から考えて来た事があって、「声」っていうのは聞くものですよね。それで能の話が出たんですけれども、『花鏡』のなかで世阿弥が「舞は声を根と為す」と言っていますが、それでいうと、声が出て来る所はまず身体という、その身体から出て来る声に乗って身体が舞っていくという感じになると思うんです。

いわば「声」と「身体」の不即不離の状態であって、「声」が無ければそもそも「舞」は存在しない。息と、声と、身体と、耳で聞くものと、目で見えるものと、そういう普通は区切られて感じられているものが、世阿弥の場合、渾然とした状態になったところに能の成功を感じているところに興味を惹かれます。先程、三浦さんが、土方さんの音楽の使い方について、私たちが良く知っている音楽を使っているとおっしゃっていましたね。
三浦
知っている音楽というよりは、何かあの曲を聴くと、どういうふうに、例えばバレエダンサーだったらこう踊るだろうな、とか要するに既存のね、踊っているイメージが浮かびそうな音楽だなって感じがしたんですよ。確かにおっしゃる通りだと思いました。特にあのバイレロという土方さんのソロの所の音というのは、もうあれだけ聴いたら何もいらないって感じですよね。全てこちらの勝手にイメージが羽ばたくし、それからもの凄く良い状態というか、精神的に何かこう良いものを想起させるものがあるんですけれども、そういう聴くものをうまく使ってというふうに森山さんもおっしゃったのが凄く面白かった。それから、それを土方さんは上手く利用していたっていうことですよね。

それと先程のどうやって時間を流すかっていう時間の捉え方の違いっていうのが演劇とダンスで違うっていう風におっしゃったと思うんですけれども、どうもその辺が今はっきりわからないんですけれども、面白いポイントだと思います。
森山
種村季弘さんだったと思いますけど、「土方巽の中にはディアギレフとニジンスキーの両方が居る」っていう言い方をしているところが印象に残っているんですけど、今の三浦さんのお話のなかで、土方さんは演劇的だ、っておっしゃったけど、その言葉は何となく私が受け取る感じで言うと、「ディアギレフ的な土方」っていうのが、一方で確実にいるって感じがするんですよ。それでいて、もう一方では、ニジンスキーもまた確実にいて、どちらか一方だけでは生きられないような関係性のようなものが、彼自身のなかで生じているんじゃないかという気がするんですよ。

そこでね、あの『疱瘡譚』のあの音楽というのは、私もやっぱり凄いと思ったんですけれど、ああいうところは、どちらかというとディアギレフ的な、というか、要するにインプレサリオ(興行主)として、ああいう形で流している、ああいう拵えをするんだっていう、はっきりした意図をもって流しているんじゃないか。その上で興味をそそられるのは。しかし、それじゃあ踊り手たちは、あの音楽をどのように、どのくらい聴いているのか、という事なんです。

つまり、あれは、いわば「どうぞ踊って下さい」っていう音楽だし、「踊っちゃえ」っていう誘惑に満ちている音楽をあえて使っていて、でも、そのまま踊らされちゃうんじゃないっていう事ですね。どこかで遮断して、身体の訓練として踊らされない何かをつくっていったんでしょうけど、しかし実際には三浦さんがおっしゃるように、ああいう音がずっと流れているのは確かなわけで、非常に誘惑的なある時間に対抗する時間をつくるのは相当大変なんじゃあないかって思ったんですね。何か「神経を切る」とか、比喩的にはイメージ出来るけど、それが実際にどうしてそれが起こったのか。つまり、明らかにあそこで踊り手たちは、音楽に流されて乗ったりしてはいないし、音楽の喚起するイメージと違うイメージを提出できているっていう、そこが面白いんですよね。何なんだろう、あれは、っていう感じがしますね。
森下
そうですね。特に土方さんは音に凄く敏感で、聞く所によりますと、日常的にラジオをかけていて、良い音楽が鳴るとすぐNHKに電話をさせて「あれは何ていう曲だ」って聞かせたっていう風に聞いていますけど。なんかバイレロで今踊れちゃうって事をおっしゃったんだけれども、通常踊れちゃうっていうことではなくって、特にバイレロとかは所謂乗っていくというよりも、状態、あと下駄の刻む音とかも含めて、身体の深部にある状態をつくらせる音、ていう気がね、するんですよ。

で、そういうものを身体に。多分稽古の時とか使っていないかもしれないけれどもそれで何かこう、身体を包囲しちゃうみたいな感じをね、改めて『疱瘡譚』見てて思って。ただバイレロって後半は最後には「アメイジングレイス」でいつも終わりだったじゃないですか。
稲田
カーテンコールの時ですよね、有名な。
山田
でもあの時、昨日はあれでお辞儀しているんですよね、バイレロで。最後はやっぱり幕を降ろす音楽を必ず使うっていうのはどういう。やっぱり見せ物…
森山
閉店の音楽。
山田
そう、閉店の音楽みたいな。その見せ物を敢えて終わるんですよっていう感じ敢えて使うっていうところのね。すごいなという、逆に凄いなという感じがしました。
稲田
その時にまた成立させるんですね、ダンサー。終わる時に。だから音楽だけでも終わりますよっていう事なんですけど、その整列の仕方がまさに終わりますよという、ダンサーがこうきちんと並んでみんなでお辞儀して、はい終わりましたっていう、今までのなんかいろんな事があったのに最後はちょっとこうひっくり返すというかむしろこう順当に終わっていく、それから案内でも今日はようこそお越し下さいましたとか、ああいう面白い仕掛けをしていて、ダンスではない事をしながらダンスらしいことしてるな、という面白い仕掛けがあるという。
森下
見せ物だから、お客さんをちゃんと喜ばせなければいけないというサービス精神をもっている。
森山
60年代のあの様々なチケットのデザインの凝り方とか、パンフレットとか、写真入りのものとかも、ああいうものは、全て、いわばディアギレフ的にやっているというか、ほとんど興行主としてやっている感じが凄くする。誰に文章を頼むか、なども含めて、興行的な計算でやっている感じは凄くします。
森下
瞬間捕まえたりとか、どんどんどんどん次から次へと会話を捕まえていく、それは作家だけじゃなく美術家もそうですけれど、池田満寿夫と一旦出会ったら次に作品をすぐつくらせるとかね。そういう事を絶えずやっていた人だったんですよね。そういう意味でのディアギレフである事は確かなんですね。
森山
しかもどのタイミングでどの人に会えば良いかっていうのがもの凄く直感的に優れていた感じが改めてしますけれどもね。で、その人とどこで別れるかとか。
森下
そうそう。どこで捨てていくか、これがまた大事ですよね。
山田
だんだん話が違う方向になってきた感じがするんでちょっと戻らせてもらっていいですか。

それで口をね、顔の表情だけでは無く、口は開きますよね。口を大きく開くってことは声、さっきの声の話、聞こえない声なのか、あの口の開きっていうのは何なのかっていうのはね、現場ではいろいろ意味があったんでしょうけど、視覚的にみていると、たとえば穴だとかそういうものはあるんですけども、やっぱりそこに発語されない声っていうものを感じるんですよね。あの暗黒舞踏では振りをあわせるときにキューとか言って振りをあわせますよね。なんか動物の鳴き声みたいな。何かそういうものも潜んでいる声みたいなもの、すごく感じたりするんですけど。港さんいかがですか?
ちょっとまた後で。
山田
はい、じゃあ何かありましたらどうぞ。もしなければ、さっきから「イメージ」という言葉が三人の方からそれぞれ出てきましたけど、いったい「イメージ」って何なんでしょうかね。
宇野
演劇とダンスということで言い出したので、明日はそういう話しないと思うから一言だけ付け加えたいと思うんですけど。あの時代の演劇と今の演劇とね、全然変わってない面もありますけども、三浦さんの話を聞いてても、やっぱり、ずいぶん演劇そのものの条件が、状況が変わってるわけです。

土方さんの時代にはやっぱり寺山修司という人がいて、同じ東北出身でもあると。座談会なんかでは共同戦線をはったりしているんだけど。でも寺山修司が舞踏をね、わりと名指しで、舞踏は自己表現しているんじゃないか、美しい肉体を舞台にさらして、自分がやりたいことはその自己表現なんかじゃないんだよっていうね。自己って言うものが無いって、無くなった状況を演劇でやりたいんだっていう問題提議をずっとし続けているわけですよね。

二人ともアルトーが大好きで、寺山修司はアルトーからやっぱり肉体の演劇って言うアイディアをはっきりうけとっているわけです。土方さんはアルトーからほとんど神経レベルでの何か表現っていうものをね、アルトーについて素晴らしい凝縮された文章を一ページだけ書いていますけども。二人はアルトーから受け取っても全く違っているわけですよね。そこに演劇人とダンスの世界の人がいて、自己表現という問題をめぐってね、ある種のやっぱり、論争にまでなってないんですけど、土方さん聞いてはいたでしょう、耳に入ってはきたでしょう。でも土方さんは今度は、寺山さんが肉体と言えば、土方さんの肉体もっと微細なレベルにあるから多分ああいう寺山修司的な肉体の扱いには、想像するにですよ、ほとんど我慢できなかったんじゃないかと思うんです。だけど今その時期からもうずいぶん時間が経ちました。もう30年ぐらい経って、今演劇の状況とダンスの状況も変わっていて、ジャンルではないところで問題を立てざるを得ないし、立てられるってことですよね。多分イメージという言葉でたとえば問題がたてられるかもしれませんけど、ちょっとそんなことを思いましたので。
山田
宇野さんは寺山が舞踏は自己表現だろうというふうに言ったことについてはどういうふうにお考えでしょうか。
宇野
あのさっき『病める舞姫』は土方さんの自己表現であり、それから無数のね魂とかの表現であるという両方のことがあるって言ったわけですけど、ですから自己表現という切り方はかなり単純だとは思うけども、そういうふうにして問題をたてた寺山の勢いというか、そのことを大切に思いますけどね。
森山
そのことで思い出したのは、稲田さんの本でも紹介されていたけれど、たしかジョン・ケージが1962年に草月アートセンターにきて、土方のパフォーマンスを見て、「表現主義的だ」っていう批判的な言葉を残したっていう話があるようなんですが、その辺の出会い方、すれ違い方が興味深いですね。

そのことと、今日の私の発表で紹介した、ケージ=カニングハム的なポストモダンダンスやハプニングのことを、土方は土方で「不正確」という言葉で批判していくってことの対照ですね。そういう土方さんの反発。お前のやっていることは正確じゃないっていうふうに、土方さんは寺山修司にたいして言いたかったのではないかっていう気がします。
山田
それって『肉体の叛乱』と『疱瘡譚』の関係はどうなんですか? そういうことから、国吉さんいかがですか。もちろんハプニングではなくですけども、全く違う形をとった時の自己表現なのかどうかというところでね。
國吉
やっぱり森山さんのお話の中で、何だっけ、イメージの具体性のところだったかな。ハプニングにいかなかった土方。そこでまあ別れたんだというお話がありましたけども。そこでちょっと今、流れと関係ないかもしれませんけども、虚構性ということを考えたんですね。

ハプニングって言うのは日常における突然の介入で云々ということで。じゃなくて、虚構という世界をまず立てて、で、そこの虚構のなかで成立するもの。というふうに考えた時に、土方さんはハプニングを選ばなかった理由の一つかもしれないんですが、虚構の世界っていうか、何か一つある世界を必要としてきたんじゃないかと。それが、まあ分かったのがと言ったら変ですが、その辺がちょっとよくよくわからないんですけど、『肉体の叛乱』っていう、ああいうあのいわゆる自分のオリジンに降りて行くんだぞという、さっきのあの発表された文章の時間的なずれのお話も確かにありまして、自分自身のことをやる。

で、出したのがあの馬鹿王の行列から始まるあの一連のパフォーマンスですよね。あれは決して彼にとって虚構ではなかったのか、あるいは虚構として無理矢理なんだろう、うちたてた舞台であったのか。その辺がちょっと森山さんの話聞いてて、すごい面白いところだなって逆に考えちゃったんですけども。

確かに『肉体の叛乱』の舞台はどこに位置づけるかっていうのは、山田さんがおっしゃったように、すごく重要なことだと思うんですね。以前に駄文を書いた時に、『肉体の叛乱』をきっかけとして、土方は舞台というものの力なり、舞台というもので実現できる方向に行ったっていうふうに私は考えて、それの一つの初期の頃の成果が『四季のための二十七晩』というものになったのかなっていうふうにちょっとまだはっきりしないんですけども、一応考えてはいるんですね。ですから虚構性ってこととさっきのイメージの、さっきお話がそこに向かいそうになったんですが、イメージの具体性それから正確さというようなこととそれから虚構性ということと、すごく大きな問題なんですけども、どのようにお考えてらっしゃるのかなと思います。
山田
あの他の方も、田中さんなんかもどうですか。パトリックさんも。
田中
たとえば『肉体の叛乱』の話が出ましたけども、なぜあれを『土方巽と日本人』というタイトルがあるのに、変えたかって問題もありますし、今みたら僕は『肉体の叛乱』というタイトルよりも『土方巽と日本人』というタイトルのほうが位置づけはわかりやすくなるんじゃないかと思うんですね。その時に土方がその、森山さんの話にもありましたけども、土方巽が土方巽になるというその非常に強い意志を持っていたという方向に向いていったことですね。そういうことを理解するにはやっぱり「土方巽と日本人」というタイトルの方が非常にわかりやすいし、『肉体の叛乱』というのは最初土方が意図してなかったタイトルなわけですから、それはやっぱり今は正式なタイトルになってしまうけど、映画上映する時は『土方巽と日本人』というタイトルとちゃんと書くべきだと思います。
森下
それはちょっとまた異論がある。森山さんが気にされた、ポスターは6月に出ていますから、見た人はおかしいじゃないか誰もが思いますよね。恐らく土方も、理由は誰もわかんないんですけど、明らかにされてないんですけど、『土方巽と日本人』というタイトルが、ダンス作品ができなかったですね、と思いますね、私は。

結局、種村さんの文章がでてきたせいで『肉体の反乱』ならできるだろう、6月から10月の間まあ少しある。その間に結局すり替わっちゃったんですね。『土方巽と日本人』はどこいっちゃったのかそれは結局『疱瘡譚』『四季のための二十七晩』に行っちゃったんですね。

その間にもちろん三島由紀夫の最後の作品が入って68年、70年、72年って流れでできたんですね。だからやっぱり『肉体の叛乱』でしかなかったんですね、土方巽はある意味では失敗したから、全くそれはすばらしい作品だとおもいますけどある意味で失敗したのでもう、まあそれはいろんな批判があって当然だと思いますけど、その解答がやっぱり『四季のための二十七晩』ということになるんですね。
國吉
すいません森下さん。正式なタイトルが『土方巽と日本人』じゃなかったですか。副題が『肉体の叛乱』じゃないですか?
森下
土方の場合、正式なタイトルは何かってのはちょっと難しいですけど、結局我々は実は『土方巽と日本人―肉体の叛乱』のチラシも発見出来てないんですね。我々は年譜を書く時に基本的に印刷物で書いているんですけど、そういう意味でのじゃあどれが正式のタイトルかと示すものが我々の手元にないんですね。チケットしか残ってない。こうなるとまた問題が複雑なんですけど、やはり結果的にみると、あれは『土方巽と日本人―肉体の叛乱』と並べてますけど、『肉体の叛乱』より『土方巽と日本人』は1972年まで持ち越されたというふうに私は考えます。
國吉
土方巽の舞踏公演とかいうのが正式のタイトルですね、確か。
チラシにはそれしか書いてなかった。四角い四方形のあれはチラシじゃないですか。ちょっとすいませんついでに微細、細かいこと言って申し訳ないんですけども、『新しき人へ』っていう本がでた、その本の広告が確か68年の公演に重なっていませんか。
森下
ポスターはもちろんそうですよね。展覧会と写真集と公演を兼ねて、これははやく作っちゃったからということもありますけど。

時期的に公演よりずっと先に作ったということもありますけど、まあそこの辺で少し時間的な錯誤がでてきたのかもしれません。正確な答えはないですけど、森山さんが疑問にされたことも非常に大事、しかもそれを正確なってキーワードがついているんで、これは私のキーワードにしよう思いますけど、これから正確さってことであらためて。
ドゥ・ヴォス
田中さんはやっぱり『土方巽と日本人』というタイトルの方が、結局作品、いくつかの断片の映像しか残ってないんだけども、これを見ていても、作品の内容からみて『土方巽と日本人』のタイトルの方が正しいという意味なんですか? 分かりやすいというか、その内容を舞台の内容を反映していると言うような意味で言っていましたか。
田中
ちょっと違います。全容はやっぱりもう見れないわけですから、断片的なものしか見れないし。だからその流れのなかで考えているだけです。その作品自体ではなくて土方の内的ロジックみたいなものを考えたらという、意味です。
山田
そこもうちょっと話して下さいますか。その内的ロジックの部分。
田中
それちょっと非常に、複雑な、長くなりますので。
山田
じゃあまた、ウェブ上で。
田中
ウェブ上で読んで下さい。
先ほどイメージのことをね、聞かれましたけど、確かに僕も今日3人が「イメージ」という言葉を使っているので、非常にとまどいながら理解しようと思ってました。「イメージ」と「身体」っていうのは気になった言葉です。「身体」という言い方もあるし、「肉体」という言い方もあるし、「体」って言い方もあるし、それぞれ使い方がいろいろあるし、その言葉にこめた意味もあります。

「肉体」は肉の体ですし、「身体」は人間の体ですね、犬の身体ってありませんから。「体」っていうと幅広いものになると。「身体」と「イメージ」というのは一緒になって考えられていると思うんですけど、僕はその「体」と「アレンジメント」という言葉を代わりに使おうと思っています。

「身体」と「イメージ」だと、森山さんがおっしゃったように、カメラを引いてっていうような感じにどうしてもなってしまう。僕の場合はクローズアップして、どんどん迫って行くやり方をしたものですから、「体」と「アレンジメント」というふうに。

三浦さんは、今日はすごいズームに近づいていきましたから。なんとなく方向性っていうのは分かるもので、もうちょっとズームしてほしいなって気もありましたけど。どうでしょうか。「身体」と「イメージ」という言葉がワンセットになっているんじゃないですか。それぞれの方に聞きたいんですけど、なぜ、「体」という言葉を使わないのかですね。「身体性」とかというような言葉を使うんじゃなくて、「体」っていうと私の体、あなたの体っていう非常に具体的なものになります。ちょっと3人にききたいんです。「イメージ」との絡みで。
三浦
まさに今のご指摘のことを僕もすごく気にしてます。ここ数年おそらく。
「肉体」って言い方や「体」っていう言い方や「身体」って言い方、いろいろありますね。今現時点で言えることは、今日の中ではちょっと言葉足らずだったと思うけど、「身体」って言うときには「時間」ということを意識して、こういう時間の経験っていうか、どういう時間でもいいんですけど、なんて言うのかな「身体」っていうのは、ある時間を過ごした上で、時間の中にあるものだと思っています。具体的に言うと。

「私の体」って言うと、今日のシンポジウムで言うと、始まりには「私の体」って事がふさわしい気がするんだけれど、今もう一時間以上たっている。何か、ここにある私の身体みたいな状況かな、状態として使っている。

「イメージ」っていうのはもう単純で像。画像とか像っていう、絵っていう意味で基本的にはとらえている。ただ今日の説明の中では「闇」ということ。例えば「闇だまり」っていう言葉を喋っている土方っていうのは、恐らく場所の話をしている。布団の中で黒砂糖をしゃぶっている「闇だまり」。それから場所性が入ってきているので、どっちかっていうと「イメージ」に近いようなきがします。それはイコールではないけど、矢印でどんどん変容していっているものなんじゃないかなっていう風に今のところはとらえています。ただ定義は僕、できないんで分かんないし、あんまり定義しようとも思ってないところはありますね。
森山
「イメージ」っていう用語を私は、今日はけっこう雑駁に使っていたんですね。ある部分では「目にみえる像」っていう意味合いもあれば、ある部分では目にみえない、しかし何か自分の中に間近にあるものっていう感じまで含めて使っていたので、雑駁なんです。

ただ、「アレンジメント」って言葉を使わなかったのは、それは多分自分がドゥルーズにあまり寄り過ぎないようにしようと思ったからだと思うんです、単純に。ドゥルーズの言いたいことは分かるけど、ちょっとその手前でとどまってみようっていう、そういう自己規制が働いたので「アレンジメント」ってことは言わなかったです。

「身体」と「体」、その問題は確かにあるんですけど、一方では「体」っていう言葉も、また「この体」って言う印象が強いって部分もあれば、「身体」って言葉とさして変わらないレベルで使えてしまうってことも一方ではあるので、私に関しては最終的には「体」で、体をさらすことで表現するとかいう立場にはないので、つまり体をどう呼ぶかってことに関しては、自分ではあえて責任をとらないっていうところがちょっとあります。「ボディ」でもいいというぐらいの感じでむしろ考えちゃおうって感じがしてます。
稲田
私は、一つはアカデミズムの方法としては、やはり「身体」を使うか、「肉体」を使うか、「体」を使うかっていうのは論文書く際最初に定義しなくてはいけないんですよね。

やはり私は「肉体」っていうのは、60年代とか時代的なコンテクストがあまりにも染み付いているので、それを排除しようと思ったんです。「肉体」とあえて使う場合は、そういうふうな時代的なコンテクストふまえた上での「肉体」として使う。そしてその「体」っていうことについて、言葉については先ほどちらっと言いましたけど、もやはりその『病める舞姫』で、ひらいた平仮名の〈からだ〉というふうに変わっていくわけですね。だからそこでやはり土方、〈からだ〉という、ひらいた表記の仕方に何らかの意味性を持っているだろうと思っています。ですから論文として、アカデミズムとして論じていく際には出来るだけいろんなコンテクストとか、意味合いのない抽象的な身体という言葉を使っているという。それが私の一応、最初の立脚点ですね。

「イメージ」ということなんですけど、舞踏を研究し始めて最初の頃は、やたら「イメージ」って言われるから、本当は使いたくなかったんですね。何かこう、すぐに身体に対してイメージって言われると、とても安直な気がして、出来るだけ私は身体についてプラクティカルにやろうというのが戦略だったんですが、やはりやっていくうちに、体を越え出るものに、何か変容なり拡張なりいろんな言い方がありますが、しようとした時に、やはりそのイメージということが体を越え出るものとして関わってくるのではないかと思います。

それは何らかの像であったり、自分ではないものの像かもしれないし、もしくは自分の身体イメージというのも大切だと思って、結局、私が文体がどうのこうの、技術がどうのこうのって言っているのは、土方がどういう身体論を、身体イメージを作ろうとしていたか。プラクティカルに身体というものがありながら、そこにどういう身体イメージというのを投影してつくろうとしていたかということを考えていたんではないかなと思っていますので、体を越え出るものとしてイメージという言葉をつかったんです。
三上
今おっしゃったことで稲田さんに質問しておきたいことがあります。
2002年のあなたのご発表で、外国の研究者に「セイムアイデア」だと言われた栗原さんの論文と私の論文で、私の論文が無くて後から書いた栗原さんの論文だけをあなたは引用されておりました。

そしてまた今回『絶後の身体』、ものすごく面白く拝見致しましたけれども、ここにも今おっしゃった通り朦朧体、衰弱体、肺柱と言った詩的な表現によって例えられている身体のための、身体を現出させるための思想と方法論、つまり身体に対する意識感覚さらに具体化するための技術を分析することが舞踊批評であり、土方舞踏の舞踏論、身体論については今後の研究批評を待つことにするとあります。私これやっているんですけど。それはお認めになっていただけないんでしょうか。
稲田
そんなことはないです。
三上
先行研究として挙げないということは認めてないということですね。これは研究史がない舞踊学の問題として舞踊学会で発表しましたよ。あなたがアカデミズムとおっしゃるんであれば先行研究に対するリスペクト、あるいは違うんであれば違うとおっしゃればいい。これは大事なことだと思います。

あと、神経に関することでも、神経のありかは踊り手のポワントだと明記して分類してます。それと、あと外触覚と内触覚の問題も博士論文の土方先生の最後のワークショップのことで書いてあります。そういうようなことをおっしゃる、同じようなことをおっしゃるんであれば「三上はこう言ってるけど、あたしはこういうふうに考える」ってことぐらいはやらなければ研究にはならないと思いますけど。
稲田
そういうコメントは今回出るであろうと予測してきましたので構わないんですけれども、確かに2002年の時に挙げていなかったのは、やはり直接的に栗原さんのを挙げた、引用していたので、そこは先行研究としてではなくて引用文献として挙げていると思います。今回私、博士論文を書きましたけれど、その中にはっきりと三上さんのを挙げています。
客席3
昨日、三上さんと森下さんの対談がありましてね、僕はあの舞踏譜についてすごく期待していたんですね。とこが舞踏譜の問題があんまり僕が思っていたふうに聞けなくて。これは『病める舞姫』の今回のこの研究とそれから舞踏譜と呼ばれている、もちろん昨日はスクラップブック、いわゆる稽古ノート、稽古ノートから三上さんにしても小林嵯峨さんにしても、とくに和栗さんがすごく綿密にされていますよね。
山田
それは2回目の時に森下さんが非常に丁寧にご説明いただいたんですよ。映像も含めて。森下さんがお忙しくてウェブ上でアップできていない状態です。今お話やめて下さいってことではなくて、そのときの記録は客席1の方が今日おっしゃったこととつながるようなことですね。
客席1
はい。
山田
なのでまず、近々ウェブにアップしますので森下さんにがんばっていただいて、ちょっとそれお待ち下さい。
客席3
そういうことではなくて、僕の聞きたかったのは、今ここに3人の方がいて、舞踏譜なり『病める舞姫』なりの土方の残した言葉が一体、どういう利点があるのか。

さっき三浦さんが結構おもしろい実験的なことをされてましたよね。ですのでそういうふうなものっていうのが今後の若い世代にどういうふうな影響を与えるかもしれないというようなとこらへんのね、何かこうポジティブな意見をお聞きしたいんですけども。
山田
それはまず森下さんから伺いたいと思います。
森下
昨日も言いました『病める舞姫』について私も数日前に秋田弁で朗読するって会をやって、これはみなさんにもちろんお聞かせしたんですけど、結局自分自身が一番勉強になっていたことだと思うんですね。『病める舞姫』に対するアプローチの一つとして出来ない秋田弁をやったことは非常にためになったので、今日三浦さんがなさったこともきっと土方理解にとっておおきな進展になるし是非本格的に舞台化して作品化していただくといいなと私も思います。
三上
世界でたった一つの暗黒舞踏ゼミの卒業生の作品として翻訳できない体の言葉という土方の『病める舞姫』とか言葉および非常に触発されて、今日持ってくればよかったんですけど。優秀制作賞を貰ったんですけども、彼の文体を非常にうまく使って自分の心象風景を書くような、これはかなりレベルの高いものが出てきています。

あと安藤先生のところから、うちで5年踊ってた子が修士論文も書かせてもらったりして、『病める舞姫』についてそういうことも出てきていますので、やっぱり彼がもっている言語の力というものは残っていくだろうなと思いますはっきりと。
山田
明日のレクチャーの中で、安藤礼二さんは「病める舞姫を読む」というタイトルでお話いただくことになっているんですね。明日の準備をしたいと言ってもう既にお帰りになってしまってここでちょっとお話いただけたらよかったんですけども。それは彼の言葉ですけれど、『病める舞姫』を細かく文章として作品として検証していくというよりは、あの書物の中から演劇的空間、身体性を抽出していくような作業ができるかどうかということを自分は考えたいとおっしゃったんです。そういう視点で考えている人たちもいるとおもいますし、明日、楽しみにしたいと思いますが。桂さんご自身はいかがですか。何かプランおありですか。
客席4
僕自身は舞踏譜って5年くらい結構いろんなところで、一番最初にやっぱりサンフランシスコの州立大学の後藤先生が三上さんのことを紹介されて、それを三上先生は快く思われてないかもしれませんけども。
英語訳が本当に…それはOKですか、ああそうですか。なかなかその例えば英訳をする作業でも、和栗さんはかなり英訳をされてますよね。それは和栗さんの直弟子の東雲舞踏の川本さんからいろいろお聞きして。実際にアメリカでワークショップをよくやったりしてたんですけども。ですので、すごい可能性があることはあるんですけども翻訳はできない。土方巽の言葉はどうも翻訳しにくいなと。
山田
でも翻訳した人がここに一人いらっしゃいますのでパトリックの話を。
パトリック
『病める舞姫』(の翻訳)そのものは、私は密かにやり始めてるんだけども、到着点がまだまだ見えていないんですね。『病める舞姫』の翻訳の問題と、それからまた別の文章を様々な角度から論じられた『刑務所へ』以降のそういう文章とはまた違う性質の文章であり、どちらが訳しやすいかわかりませんけども、確かに今日のお話の関連で言えば『病める舞姫』の方はやっぱり「声」ですね。

土方巽は作家にならなかったということも、どうしても言葉は声に出さなきゃいけない。もちろん舞踏家としては声を出していないわけですけども。今日のみなさんの話を聞いて一番関心があったのは、「声」という問題。私は翻訳作業の中で、どんな声を聞かせればいいのか。翻訳するというのは、文字を並べて紙に載せて読ませるということなんだけれども、その中でも一種の声を聞かせることが非常に大事だと思うんですね。

『病める舞姫』の翻訳の一番難しいところは他の文章よりも声の重要性が、声が潜んでいながら聞こえてくるというような感じはしますね。もちろん全ての翻訳の問題はそれだけではないかもしれないけども、まずそういうような問題ですね。様々な話は既にあったわけですけど、まだまだ僕はその声っていうのは身体がフィクショナルな、バーチャルなインターフェイスのそういうところですね、声っていうのは。身体性のある言葉、そこの声のなかで実現されているわけですので。具体的に翻訳では、それぞれの言葉をどういうふうに土方は扱っているのかというだけじゃなくて、その声の息づかい、リズム、そういう時間というのが非常に大きい問題なんですね。

どうしても「声」っていうような問題、僕も考えていきたいわけで、森山さんのお話にもそういうのがあって非常に興味深い。口にするとか、口で喋るとか。土方の文章のなかにはそういうようなテーマが出てくるわけですけども。うまく言えないんですけども。しかし可能性が必ずあるわけですよ。翻訳の可能性は。私の場合はフランス語ですので、今まで作った翻訳の中には多少声が聞こえてくると思うんですよね。
山田
ボリス・シャルマッツのお話は、この前いらしてない方もたくさんいると思うので、実際にもう行われていることをお話いただいて、みなさんにご紹介していただけますか。
パトリック
その翻訳をシャルマッツっていうコレオグラファーが『病める舞姫』の翻訳を元にして舞台をつくったってことなんですけども、最初は彼が言葉を舞台で発しない、必ずしも舞台で言葉を聞かせるというような前提で企画をたてたわけではないのですね。しかし結局そういうふうになってしまったんです。ですから多くの観客の中には、これは踊りはどこにあるか、演劇じゃないかっていう、そいう意見が多かったわけでね。結局ダンサーじゃなくて女優が舞台で、朗読って言葉はふさわしくないと思うんですけど言ったわけです。

『カザグルマ』という文章はそういうふうになったわけですけども、他の文章も使われて、舞台で発せられたわけだけども、シャルマッツにとっては当然舞台に使わなかった文章中から発想して非常に刺激的で、彼のその舞台の構成なり様々なエレメントを考えたわけですね。
山田
ありがとうございます。フランスのボリス・シャルマッツというコンテンポラリーダンサーがパトリックさんの訳を女優さんが朗読を用いて作品をつくったということがありました。日本でそれを上演したいという動きもちょっと起きてきているようなので、そういうことがどんどん起きてくるといいんじゃないかなと思っています。
パトリック
もう一つ付け加えますと『病める舞姫』についての質問なんですが、やっぱりこれは難しいなんですね、他の文章よりも。他の文章は、それもどんな類いの文章なのか森山さん的に言えば、それぞれの文章がどんな読み方が可能なのかって、文章のなかにそれが書き込まれていないとか、そうなんですけども、しかしやっぱりそのなかで一番戸惑うのが『病める舞姫』だと思うんですね。他のエッセイなどがマニフェスト的な、みなさんご存知のことなんですので、そういったことでもう少し翻訳の立場が見つかりやすいところがあるわけですけども。

シャルマッツには『病める舞姫』の本の一部ですね、何渡したか憶えてないんだけど。もしかしたら翻訳は全く全然できていない、「声」が聞こえてこない。「声」の中に孕んでいる非常に大きな、それこそ「イメージ」と「体」との関係がそこにあると思うんですね。それがまだ翻訳の中に充分表れていない可能性もあったんだけども。しかしやっぱりシャルマッツにとっては、ちょっと話したんだけど、そこから何も見えてこないと言ってましたよね。
山田
じゃあこれからもがんばって下さい(笑)。そろそろ時間なので、何かありますか。
稲田
ポジティブな可能性ということなんですけども、『病める舞姫』っていうのは土方巽の身体の思想であり、身体の思想の実践だと思っているんですね、あの文章自体が。

それで土方が舞踊によってというか、身体とは何だ、どういう可能性があるのかっていうことをあそこで実験してるってふうに思ってるんです。ああいうふうにホールボディっていうのもフラグメント化していくっていうような発想は、実はコンテンポラリーダンスの中ですごく行われていることですよね。例えばウィリアム・フォーサイス。まああれはバレエから出てきましたけども、ほんとにこうホールボディが一つとして動くというよりも、いかに体を細分化していくかっていうような方向性が一つあると思いますので、そういうふうな身体の問いかけの一つの材料として、これは別に舞踏だけの問題ではなくてコンテンポラリーダンスにもバレエにもどれは活かしていける非常に貴重な財産だとおもっています。
山田
ありがとうございます。ものすごく盛りだくさんというか、詰め込んでいて本当にみなさんおつきあいいただいてありがとうなんですが、なかなか土方さんを中心にこのような会をもつということは、企画するのもなかなかエネルギーがいります。ちょっと詰め込み過ぎているところあるかもしれませんけどもご了承ください。明日もまたお時間あったらお出かけ下さい。今日は長い間ありがとうございました。