京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催
研究会 ダンス 研究と実験VOL.2 2009
土方巽~言葉と身体をめぐって

京都芸術劇場 春秋座 studio21

研究会の記録

三浦基『闇って何?土方巽の可能性』

初めましての人もいると思いますが、私、三浦と申します。舞台の演出をやっています。この土方をめぐってのシンポジウムに参加させて頂いて、何回か発言しているんですけれども、まさかこうやって持ち時間を頂いて、何か一人でしゃべるということになるとは思っていなかったんです。

何が出来るかなと思ってちょっと応援に、私といつも作業をしている俳優の石田大君を呼びました。今日はタイトルにありますように『闇って何?土方巽の可能性』とつけまして、そこを考えていくと。ちょっと引用が多くなるのですが、この土方巽全集から引用しつつ、いろいろと考えていきたいなと思っています。

で、土方の書いた言葉を僕が読むのも野暮なんで、彼に手伝ってもらおうかなという立場でいます。これも何度もこのシンポジウムで開口一番に気にしなきゃいけないことの一つとして、土方を実際に見ているのか、そうでないのかという事。僕も前回は、ちょっと強がってみて、「見ていないとは言わないとかですね」とか、いろいろとややこしい言い方をしたのですけれども、幾つかの機会がありまして、僕自身が土方の映像自体を見たのはかなり古いんですね。もう15年くらい前、学生の時に『疱瘡潭』を観た記憶が昨日甦りまして。そういえば見ていたなとか。

その後の所謂いろいろと複雑でしょうけど、舞踏の色々な流派の公演とか見たりとか、あるいはこれもまたいろいろと大変でしょうけども、山海塾は良く見ていたりとか。あれは舞踏じゃないと言ってしまうかもしれませんが、そういうのは、私は他の畑なので放っておいたとして、いずれにせよそれらしいものは見てきているんですね。ただ土方自体がどういう風に私にとって刺激的なのかな、とはぼんやりと思っていまして、探していたんですね。そしたらこの本に出会いまして、読んでいくうちにこれはちょっと大変なことになっているなという印象を受けました。それは稲田さん及び森山さんからの出典がありましたけれども、どう読んでよいか分からない。それを相手に委ねるとか、どう定義していいか分からないということも含めまして、この本は、意外と今からちょっと考える必要があるんじゃあないかなというふうに思っています。

それで土方巽の可能性って一体なんだろうと。私なりの立場というのは言葉を扱いますから、戯曲と呼ばれるもの、テクストがあって、そこにアタックしていく仕事をしていますから、そういう意味では非常にアタックのしがいがあるテクストだなというのが、まず私の前提です。ただ、じゃあいきなり土方ってなんだっていうのを考えるっていうことはちょっと難しい。かなり多角的に作業をされている方ですし、いろんなイメージもありますよね。写真集にしてもそうだし、いろいろあるんですね。ただ僕なりに最近そのアルトーとかジャン・ジュネとかのテクストを使って作業をしているわけですね、作品をつくろうとしています。それで免疫って言うとちょっと変かもしれませんけれども、アルトーやジュネを通して、土方っていう日本人に出会っているような気がします。そこに敢えて言う共通項っていうのは何かって言うと、何か思い込みが激しいなと言うか、それを別の言い方でいうと何か愛を持ってやっている感じですね。

それはもちろんアルトーだとキリスト教の問題、ジュネだと社会運動の問題とか、それで先程お話がありましたように日本の土方の芸術の問題、68年の安保の問題とか。いろいろ時代とリンクさせて考えることはできるんですけれども、ちょっと似たような資質を持っている表現者なんじゃないかなという風に感じています。そういう感触を持ちながらこの本をパラパラとめくっていったりしていて、ある文章に行き当りまして。今日はいろいろ出典するので出典場所とかは言いません。あんまりそのことに意味がないので。その文脈ではなくて。あと時代がどうこうとかっていうのはちょっと省かせて下さい。あとで質問があれば言いますけれども。それで、ある文章のところを読んでこれは面白いなと思った所があるんです。そこをまずちょっと。

朗読
ほんとに、もう、判からなくてねぇ、もう、なぁ、わたしはもう水溜りにころぶことがただただこわくて、恐くてね、それからひとのことばをね、暗誦する様になってしまってね、うん。どーーぞいって下さい。どー―ぞいって下さい。どー―ぞいって下さいっていってねぇ……嘘でもいい。うそでもいいよ。うそだって何だってあったほうがいいじゃない。うん。うそだっていいよ。無ぇよりあったほうがいいじゃない。でもね、わたしねぇ、嬉しいなどというものには、キッパリ、けりつけようと思ってね。ところがわたしを笑う人が居るのよ。えぇ。だからそれは死骸だって、ねぇッ。それも家のなかでわたしのことを笑う奴なんかみんな死骸だってね、わたしそういってやったの。ええ。なんていって、わたしなんか、なに、生れたときからね、ぶっこわれて生れて来てるんだからね。ええ。そんなことちゃんと判ってるよ。いわれなくたって判ってるんね。うん、ほんと、わたし誰にゆずられて、何に迫害されねばいけねえなのか、それがねぇ、わたしが、わたしが人としてねぇ、語ることなんかとても不可能だ。あなただって不可能でしょう。だからねぇ、わたしはね、とても平らなものがあるでしょう。平らなものの中さ、頬ッペタつけて、いゅうーって泣いている人だとかねぇ、ひしゃげた板、いかにも大事そうにしてねそこらへん歩いている人だとか、一升瓶からダラダラダラダーって畳の上に水垂らしている人みてね、わたしはね、そういう人たち何が怖がってね、何が怖いのか、わたしね判るよ。判るよ。だから蒲団は四人前も破ってね、上からもう、ギュッ、ギュッて踏んづけられてね、そりゃ目玉も飛び出す、歯もバラバラよ。でもわたし医者は呼ばねよ。医者呼ばね絶対に。

今、彼はかなりゆっくり読んだんですけれどね。土方はよく言われているように口述筆記とか、シャベクリが上手くて、というところから本当に筆をとって書いてるのかどうかというのは出典によって違うと思いますけれども、この文章っていうのは、かなり語りですね。今彼は相当ゆっくり読みました。でもおそらく、もっと猛スピードで言っていますね。言っていますというか思考されているんじゃないかということですね。しかもそのほとんどが書かれてある通りに、どーって書いて「」が小さくなって伸ばしてあって、ハイフンがあって、「ぞ」を言って下さいっていう風な表記通りに正確に読んでいるんですけれども、この辺はご存知の通り、彼は秋田出身ですから秋田弁、というか一つのニュアンスを持った言語として扱ってます。その辺がいろいろと複雑に絡んでいるとは思うんですが、ということが一つの前提としてあります。

ここが面白いなと思ったのは、「それが死骸だ」って、死骸について言っているんですね。何を言おうとしているのかさっぱりわからないんですけれども、どうも何か表現、口をついて出るでもいいんですけれども何か言おうとしているんでしょうね。言おうとしているものがその言おうとしている内容についてさっぱり分からないって言っているんですね。で、「人の言葉を暗唱してしまうようになってね」ってどうも言うんですね。「何に向かってしゃべっているかっていう対象は分かっているよ」と。それは死骸だって言っているんですよね。死体というか死骸とここには書いてあります。死骸。それで周りはそのことを私の、土方の、「私の対話の仕方がどうも異常だって言っているけれども自分は医者は呼びません」って言っているわけですね。で、「医者は絶対に呼びません」書かれてある事をそのまま読むとこうなるわけです。

もちろん、この作品を小説として読むのか、何として読むのかっていうのはさておいておいて、言葉そのものを見るとこういう語りかけの仕方、っていうことに非常に僕は興味を持ちました。それからもうひとつ、先程言いましたがアルトー、ジュネの免疫が出来ていると言ったのは、免疫がないと読めない部分があるんですね。キリスト教の問題とか翻訳の問題とか。ただ、たまたまですけれども僕の両親の実家が秋田県で何となくこういう感覚、コンテクスト、文脈は一応知っている、ということを材料として読んだ時に、もの凄くダイレクトに対話をされてきているような印象を持ちました。

そして今日の主題なんですけれども、彼が好んで使う「暗黒舞踏」「暗黒」とかですね、マニフェスト、そういう宣言をするわけですね。自分のやっていることは何であるという言い方をした時に、何か言葉で命名していく作業をしていくと思うんですけれども。

「暗黒」というのは暗がりと言ってもいいんですけれども、薄暗い中で布団が敷いてあったとかですね、暗いのが好きみたいで、その究極が闇ですよね。「闇」っていう書き方も、表記によっては年代によってはいろんな闇と、「暗黒」と書いて「やみ」とわざわざルビがふってあったり、まあ普通に闇と言ったり、闇と言っても何の事を言っているのかなという事をちょっと考えていきたいと思うんです。

唐十郎の対談の中で面白いエピソードがありまして、「日だまり」というのがあると。唐が庭先に日だまりがあって、そこにしゃがんでみたらどうかっていう内容がありまして、それで、唐が自分は、闇だまりっていうものがあっていいんじゃあないかと思っていますと言って。土方が、それは良い言葉だって言って。で、土方がですね、夜、布団の中に潜って砂糖をぺろぺろ舐めているんだと。その砂糖は白くてはいかん、黒砂糖を舐めている。あそこは闇だまりかもしれないね、という言い方をしていて、その事はおそらく唐が言っていることは言葉遊びだけではなくて、演劇の持っているその場所性、どこが闇なんだっていう話なのだと思うんですよね。その辺のことにどうも彼らは敏感に触れている。余談ですけれども、例えば鈴木忠志は利賀山房を雪の中、初めて見に行った時に、あっ、この闇ならばできるって言ったらしいですね。あそこには本当の闇があるって。まあそれは雪に埋もれている所を二階から入って中に日本家屋があるんですね。どうも闇に対する憧れがあって、憧れと言いますと怒られますけど憧れですね。 闇と言えば何でも通用するのかよという感じがありまして、私の中に。そういう思いで進めていくと、ちょっと次にダイレクトにかなりこれ本質的なこと言っているなという文章があるんです。

朗読
私は、私の体の中にひとりの姉を住まわせている。私が舞踏作品を作るべく熱中するとき、私の体のなかの闇をむしって、彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず坐りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。というかかわりあい以上のものが、そこにはある。

先程稲田さんのご説明にもあって言われていましたけれども、観せる作品をつくるんじゃあなくて、という事がありますね。踊りというのは観せるんじゃあないんだという言い方をしています。で、他の箇所でですね、土方が、観られるんだと。身体が晒されていくんだという言い方をするんですね。身体が晒すようなものの居方として、舞台というところに居なきゃあいけないと。その時に今のですね、私の身体の中の闇をむしって彼女がっていうんですね、で、これ姉であるというわけです。つまり、別に姉でも妹でも何でもいいんでしょうけれどもきっと。何でもいいと思っちゃうんですけれども、僕はその姉の事は知りませんけれども、具体的な対象を自分の中に仕掛けとしておくわけです。その事によって見られる身体っていうものをつくっていくのかなと。ここが具体的な対象っていう中でそこには闇があって、しかもここが難しいんですけれども闇をむしって食べた、食べるっていう動詞を使っているんですけれども食べてっちゃうんです。で、もう少し先の先程のところでも引用されていましたけれども、違う意味でその闇を語っている箇所があるんですけれども。

朗読
性別を越えた、凍てついたような骨だとか、そういうものにかかわりあわないと舞踊家はだめじゃないかと思うんですよ。ただ、そこへ行き着く前にいろいろ調べ上げていかないと疑似暗黒がはびこるしすぐ風俗化してしまうものがある。それは時代の産物では確かにあるけれども、それをやっている人間がかいま見た風景がいいかげんなものですからね。アンダーグラウンドなどがすべて風俗化していくのも、外部のせいじゃなく、やっている人間たちの問題じゃないかと思うんですね。すぐ自分の外側に砂漠を設定して、水もないなどと言う。そんな事を言う前に、自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか。自分のからだにはしご段をかけて降りていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところがみんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね。

暗黒、疑似暗黒がはびこるし、とかですね、これは所謂何かを批評しているんでしょうけどね。批判したりしているわけですけれども、その自分の身体にはしご段をかけて降りていったらどうだろうか。って言っているんですけれども先程の所では姉が住んでいるっていう言い方で、姉を設定する。

はしご段を降りていくって言う事と、姉を設定するという事ですね。ここには違う言葉で言うとイメージがあるんだと。それは外側から何か与えられるものじゃあなくて、内側で自分でつくりあげるのかもしれないんだけど、そういったイメージを持っていけと。で、外圧とか、そういった環境とかに身を任せては疑似暗黒、嘘になるよって言っている。これは表現論として読む事ができると思うんですけれども、相対化と絶対化って言うと分かりやすいと思いますけど、相対的に外側があるんじゃあなくて、絶対的に姉が住んでいるっていうことになっちゃうんですね。

闇を相対的に語ることはできます。しかし、絶対的にじゃあ姉でも妹でもいいってある意味暴言を吐きましたが、絶対に姉じゃなきゃダメだ宣言だと思うんですね。おそらく。でその事は何人たりとも入り込む余地がない。出来る事が出来ない。という所が先程の森山さんの説明だと、その正確なイメージ。具体的な正確なイメージを持っているんだ。例えば父親が殴る前の歩幅がそうであるっていう言い方をしていると思うんですが、おそらくですね、じゃあ絶対に姉が居たのかっていうとそれは居たと思いますが、どんどん移ろって変わっていくはずですね。表現形態も変わっているわけだし、変わっていっていると思うんです。

ただその時にやはり相対化っていう言い方をしましたが、アンダーグラウンドなどと全て風俗化していくのも、っていう形で批判を加えているわけですけれどもその当時の時代というものと良いバランスをとりながら、発言されているんではないかというアンテナを感じるんですね。で、もうひとつ面白いのは正確な引用じゃあないんですけれども、ジョギング、外を走ったりすると人間は。ジョギングしたりすると。健康の為に。でそれはおかしいんじゃないか的なことを言っているんですね。で、つまり人間は死に行くものなのになんで今更そういうジョギングみたいな健康志向してしまうのだろうかということを非常に彼は何かに書いているんですけれども、そのこととその相対的に闇を見つける、イメージという言い方に今、すり替わりましたけれども、イメージを作っていくと言ってみると、そこの辺の感覚がこの闇を補強する上で、おそらく移っていっているんだと思うんですけれど、もう少しですね、具体的なことを言っている所があったんですけれども。

朗読
舞踏でうまく踊れたとか踊れなかったとかいうのはナンセンスですよ。絶対絶命本当に踊れなくなってしまう舞踏ならわかりますが。そういう踊りをみたら人間はものすごい感動ですよ。そういうケイコはしますね。たとえば、まずそこに立って、何の為に立っているかを問いかけるとか、一寸先は闇ですから、ある目的性を持っては、踊りというのはどうしても遅れてしまうんですね。

ここではっきりと言い出したんですね。一寸先は闇ですからって。これは別に普通に私達もよく使う常套句ですね。ここでぽろっと言っているんだけれど、言葉尻だけの問題じゃなくて、表現とは何かってことを考えるけれども、結局その先のことは全然分からないって言っているんですね。

で、わからないイコール死んじゃうんだから、一寸先は闇だから。死んじゃうんだから、死のような、死体のような居方を舞台で出来ないものか。それを一応ネーミングとしてここでは舞踏っていう言い方をしているんですね。で、踊れなくなってしまう舞踏なら分かりますが、って言っているんですけれども、そういうような存在をされると感動しますねと。土方は他のところでも様々に語っているんですけれども、自分が死体を見つめていると。で、死体を見つめていてその死体を演じるという言い方はしませんけれども、その中と対話をする。これはすなわち彼の言う闇というのはここに於いては現時点では存在論、つまり死、闇イコール死に繋がるものなんだっていうことが読んでとれるわけです。

ちょっと一寸先は闇ですからっていうのはぽろっと言っていますけれども、そういうリアリティを持っているわけですね。ここで考えられる事は、私はダンスの事は本当に動きの事とかは言葉が滑っちゃうんで、あんまり言わない方がいいんですけれども、要は解体とか先程から出て来た文脈がありますね。解体とかバラバラとか異化するとか。そういった事っていうのは要はここで言っている「死んだ状態」っていうものを作らないと、観られる身体にはならないよねって。もし今彼がここで死んでいたらビックリするでしょう、単純に。単純にビックリするわけです、それは。それほどの存在論っていうとちょっとオーバーですけれども、そういうものですよね。そういうことを言っているんじゃないかなあというふうに思っているんですが。

もちろん違う角度からも見つめ直さなきゃいけなくて、次の文章は中西さんという画家と山の上ホテルでインタビューをしている部分、対話からの引用なんですね。ちょっと分かりにくいんで先に説明します。そういうところに記者もいて、その中でしゃべりましょうっていうことです。で、そこはロビーですからテーブルクロスが貼ってあるこういったテーブルがあってそこに花があるっていうシチュエーションについて土方と中西さんがしゃべっているところ。

朗読
石田 土方、 それで中西さんにもっと近づきたいので一番最初にしゃべったテーブルクロスに行くんだけれども、これを一枚の画布として、こうやって三人の男性と一人の筆記者が対話している。この一枚のテーブルクロスが私たちを包むようになれば、ここにある花は要らないと思うんです。そして、こういうテーブルクロスはめくるようにできている。包むようにできている。これはある場所からある場所へ移行し、往復しているということなんですね。これがひとつの形態、形の最終的なものじゃないか、その中心には何があるのか。ぼくは闇だと思うんです。暗がりと言ってもいいと思う。
中西、ああ、闇ですか。僕はいま嫌味と聞こえたんですけれどね。(笑)
土方、それはちょっと(笑)今日は薄味にしましょう。そういうこともある。

要はですね、ここで初めて「闇」というものが対象化されたと思うんですね。関係性において、あなたと私がいる間にこういうものがあると、こういうものがあるんだけれども、これが今までの闇の感覚でいくとこのものが無い方がいいんじゃないかと。

で、そこにある、間にあるものの、具体的に言うとテーブルクロスにより包み込まれたもの、つまり間の空気と言って良いと思うんですけれどもそれが闇ですよねって言っているわけですよね。で、どういう文脈か分かりませんけれども、嫌みに聞こえましたということで、ちょっとはぐらかすんですよね。それ以上行くと、そっちに行っちゃうと、やっぱり闇論っていうのは凄く自閉的だし、観念的だし。悪い意味で厳しいんじゃないかっていうことが、ちょろっと垣間見えているシーンなんですけれどもね。

ここまで他にもいろいろ様々に闇っていうのをもっと作為的に使っている部分もあるし、様々に言ってきている、言っているんですけれども、結局じゃあ闇っていうのは何かなって考えると、もしかしたらその何らかの形に自分を追い込むことなんじゃあないかな。その何らかの形っていうのがどういうことなのかなっていう事を書いて、考えさせられる文章があるんです。ちょっと回りくどい言い方ですけれども、文章が最後の長い文章なんですけれども、ちょっと読んでいって。

朗読
石田 死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい。ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくったってあっちが私を知っているからね。私はよく言うんですが、私は私の身体の中に一人の姉を住まわせているんです。私が舞踏作品をつくるべく熱中しますと、私の身体の中の闇をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまうんですよ。彼女が私の身体の中で立ち上がると私は思わず座り込んでしまう。私が転ぶ事は彼女が転ぶ事である。というかかわり合い以上のものがそこにはありましてね。そしてこう言うんですね。お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやっているけれど、表現出来るものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。といってそっと消えていく。だから、教師なんですね、死者は私の舞踏教師なんです。死んだ人を大事にしなくちゃあいけませんよ。遅かれ早かれ遠い日か近い日に私たちもいつか召されていくわけだから。その時あわてない様に、生きている間にものすごいレッスンをしなくてはならない。死者を身近に寄せて、それと暮らさなきゃならない。今はもう光ばっかりでしょ。光を背負うと、光を背負って来たのは私達の闇の背中じゃないですか。そのガキがのさばってやたらに闇を食い散らす。だから闇の方でも夜の中から逃げるのよ。今の夜に闇なんかありませんよ。昔の闇は澄んでいた。この話は後からするけどおそらく時間がなくなるでしょう。いや、なくなりますよ。

形っていうのは結局このように自問自答していると思うんですね。誰かしゃべっている対象を持っています、しゃべる根拠のために。だけど結局僕が思うのは一人なんじゃないか。1人に向かって、自分が1人、闇=1人、という事なんですけれども、1人をつくり出す為にいろいろな仕掛けや自分の中に仕掛けをつくっていく、というふうに考えられる、ということをちょっと思ったんですね。

で、80年代、90年代かな。舞台でも蛍光灯を使うのが流行ったんですよね。あと、白いシーツとか、明るいもの、パーッと。先程から見ている映像は主にやっぱり60、70年代だと、暗いでしょう。その闇とは何かっていう話で急に現実的な話をしましたけれども、暗いんですよね。でもある時期から明るくなっていた。それは当然蛍光灯の普及にもよるんですけれども、で、舞台のほうは敢えてそれを使っていった時代というか、流行と言ってもいいです。蛍光灯がバーッと隅々まで人間を舞台で照らし出す。陰影なんか無いと。フラットにしておく、その中に身体を晒すんだ。いう感覚ですね。で、晒される身体というものが本当にあるのかという事までも含めて舞台はまあ、良い舞台を観るとね、80年代90年代をまあ、一般的にですけど、非常に明るくなっていったと思うんです。で、別に闇っていうのは暗さだけの問題ではなくて、おそらくその土方の言う闇というのはこういった仕掛けをつくっていく、もちろんその絶対的なイメージっていうのは彼は持っているんですけれども、それだけじゃ対応できなくて、時代とともに移っていく様っていうのは非常に面白いんじゃないかっていうふうにこの闇を見つめています。

で、今日は本当に話したいことはこういった分析ではなくて、土方の可能性がどこにあるのか、私にとってということですね。で、先に言いました様に私は言葉から入っています。今日この朗読がどのように受け止められたか分かりませんけれども、結構面白いんですね、単純にね。単純に説得力あるし、これがセリフにならないか、セリフにっていう言い方は、もうちょっと丁寧に言うと、明らかにどんな明るさでもいいんだけれども、それは考えないといけないんだけれど、人前で今日ちょっとやったような、やってみたようなことの中で何かチャンスにならないかっていうことです。そして闇イコール一人っていうのは随分乱暴な言い方だったんだけれど、あるイメージは持っている僕なりに。それをちょっと実演というかお試しにやって、今日のお話を終わってみようかなと思います。もう一度同じ文章読んでもらって。

朗読
死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい。という事なんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくったってあっちが私を知っているからね。私は良く言うんですが、私は私の身体の中に一人の姉を住まわせているんです。私が舞踏作品をつくるべく熱中しますと、私の身体の中の闇をむしって、彼女はそれを必要以上に食べてしまうんですよ。彼女が私の身体の中で立ち上がると私は思わず座り込んでしまう。私が転ぶ事は彼女が転ぶ事である。という関わり合い以上のものがそこにはありましてね。そしてこう言うんですね。
三浦も
お前が踊りだの表現だの、無我夢中になってやっているけれど表現出来るものは何か表現しない事によって現れてくるんじゃないのかい?と言ってそっと消えていく。だから、教師なんですね。死者は私の舞踏教師なんです。死んだ人を大事にしなくちゃあいけませんよ。遅かれ早かれ、遠い日か近い日に私達はいつか召されていくわけだから。その時慌てない様に、生きている間にもの凄いレッスンをしなくてはならない。死者を身近に寄せて、それと暮らさなきゃあならない。今はもう光ばっかりでしょう。光を背負うと、光を背負って来たのは私達の闇の背中じゃあないですか。その餓鬼がのさばってやたらに闇を食い散らす。だから闇の方でも夜の中から逃げるのよ。今の夜に闇なんかありませんよ。昔の闇は澄んでいた。この話は後からするけど、おそらく時間がなくなるでしょう。いや、なくなりますよ。

まあね、ちょっと私こんな事を始めちゃったんですけれども。何をしたいかって言うと、声っていう事を考えているんです。ちょっと分かりにくい点もあると思いますけれど、彼はただ読んでいるだけだけれど、それなりに何かをして、やるわけでしょう。それなりに何か作業をしてやる。で、聞こえなきゃあいけないとか。ここに届く声の分量とか。僕が一緒にやったことは少し最初ずらしていって、ある所からいつの間にか同時になっていく。

これがもし、5人あるいは10人ということになっていってもいいんじゃないか。そこには誰が何の事を言ってもいいんじゃないかっていう事です。で、そういった事を実は土方の持っている、舞踏性、身体性と言いますかバラバラのものを組み合わせていく、統合性、そしてそういったものを思考のレベルで舞台に具体的にね、具体的な彼が残した言葉っていうものから新しい形の語りっていうものをつくっていけないかな。そのことは主題にもよると思うけれども、おそらく先程、森山さんがおっしゃったような芸術に対する問題っていうものを深く大きく関わって来ると思います。そしてもちろん彼の卓抜したその文学性と敢えて言いますけれど、そして哲学性といい、良い意味でね。そういったものはある種検証するに値するんじゃないかなっていうふうに思っています。お粗末様でした。