昨日『疱瘡譚』の映像記録を見て、あらためて強い衝撃を受けました。衝撃というのは、一言でいえば、どうしてこんなことが可能になってしまったのか、なぜこんなものがこの世に生まれ落ちてしまったのか、という感じです。私は現代演劇の批評を現場としていますが、おそらく現在、土方巽に関する最も批評的な行為は、一人でも多くの人がこの映像記録をみること、そのためのあらゆる手段を講じることだと思います。いろいろなことを言う以前に、というかその前提として、ごく普通の意味で、この作品は歴史的な価値のある舞台作品だと思うし、そのことをたえず確認し、共有しておく必要があります。広い意味での現代演劇の作品にかんして、同じような意義を感じる作品としては、ちょっと唐突ですが、たとえばダムタイプの『S/N』(1995)などがすぐに思い浮かびます。ダムタイプの『S/N』は、15年後の今見てもまったく古びたところがないし、実際さまざまな人がさまざまな場所で上映会を組織しています。いうまでもなく、舞台芸術のよいところの一つは、作品が消滅してしまうところにあります。けれども、いま、私たちがさしかかっている時代は、あらゆる舞台作品が、ビデオやDVDはもちろん、YouTubeのような場所で、作品が終わった後も映像で見られざるをえなくなるような時代です。そのことの是非は両面ありますが、八角さんもよくおっしゃっているように、映像で失われることもある反面、映像を通すことによってはじめて見えてくることがあるのも事実だと思います。見られるものは、何はさておきともかく見ておく、それも、できるかぎり上映環境のよい場所で見ておくことが、今後ますます演劇批評の問題として重要になってくるのではないかとあらためて痛感しているところです。どうせ見るなら、太田省吾の記録映像はどういう環境で見られたほうがよいのか、どうせ見るなら、三浦基さんの記録映像はどういう環境で見られたほうがよいのか、ということを、たえず議論しながら作っていく場ができれば、映像記録をちょっと見ただけですべてを理解したつもりになるような「映像記録中心主義」に、逆に抗うことができるのではないかと思います。
ところで私はこのレクチャーに、「神話を切り裂くためのレッスン」というタイトルをつけました。私がこのタイトルを思いついたのは、レクチャーをどうしようか考えているときに、昨年6月の、第一回の研究会で参考資料として配布された宇野さんの文章を読み返していていたときです。土方巽という存在は偉大な存在でしたが、多分に「1960年代」という神話と不可分の形で語られることが大半です。私は、土方巽が何をしたのか、「1960年代」という時代が何を生んだのかを、多角的な、複数の歴史として語りなおすためにも、曖昧な神話はどんどん切り裂かれるべきだと思っています。もちろん「神話を切り裂く」とは、当事者や先行世代の研究や業績を否定するということではまったくありません(時に父殺しが必要な局面があることはたしかですが)。また、「切り裂く」という言葉使いが大げさで不穏な感じを与えるかもしれませんが、実は「切り裂く」ことは、もっと普通にできることが多いように思います。たとえば、『疱瘡譚』の映像をよい環境で上映した後で、その作品について語り合う場を持つ、というだけで、すでに曖昧な神話は崩壊します。私は昨日映像を見ていて「神話が切り裂かれた」と感じる瞬間があったのですが、そのうちのひとつに、土方の場合、動いているときの動きができるだけ鮮明に見える環境で映像を流すことが、いかに重要かをあらためて思い知らされた気がした、ということがありました。周知のように、土方の踊る姿を鮮明に見ることのできる映像は、ほとんど遺っていません。それに対して、細江英公の『鎌鼬』に象徴されるように、静止画=写真での土方の姿は、かなりたくさん遺されています。そして後者は、明らかに既存の土方神話、既存の1960年代神話の形成に大きく寄与してきました。それがすべて悪だというつもりは毛頭ありませんが、やはり土方巽はダンスという、(動かないことも含めて)動くことを根幹にすえたジャンルで勝負しようとした人である以上、彼がどのように動き、どのような動きを志向していたかを知ることは決定的に重要です。ほとんどの人にそれが閉ざされている状況は、やはりよい状況とはいえません。前回11月のこの研究会で、『四季のための二十七晩』をほとんど劇場でご覧になっていた渡邊守章さんが、世阿弥の「幽玄」の概念等を参照しながら、「踊っている土方巽は美しかった」と一言おっしゃっていましたが、大きなスクリーンで見て、はじめてその優美さ、上品さ、という側面がはっきりとわかりました。そして、グロテスクだの怪奇だのという通俗的なイメージ(土方の使っている言葉を借りれば、衛生博覧会的なイメージ)に一見おさまりそうなしつらえをしていながら、まさに動くことを通じて、見事に第一級のバレエ作品に匹敵する美を作り上げているのをまのあたりにして、土方巽が何に向かって挑戦していたのかが、あらためてよくわかった気がしました。私が今回印象に残ったことのひとつは、音楽と踊りの関係性です。『疱瘡譚』では、選曲が見事だという感じがしました。義太夫節や三味線音楽のような和物にしても、ワルツのような西洋音楽にしても、私たちはそれを聞きながら、どういう身体がそういう曲を美しく踊るか、いいかえれば既存のテクニックというか、メジャーな美のあり方をありありと想像することができる。土方はあえてそういう曲を選んでいるように感じました。ところが、目の前で展開している出来事は、まったくそうした美が生み出されそうもない、むしろそうした美とは真逆の身体と扮装から、それに匹敵するような美が生じうることの発見、その驚きというものが、視覚と聴覚の関係性から生じているように思えました。たとえば『疱瘡譚』の映像記録を上映する際、舞踏というくくりにこだわらず、ベジャールやピナ・バウシュやフォーサイスの作品などと並べて上映したほうが、土方が何に賭け、何を達成していたのかが、鮮明に浮かび上がってくるのではないかと思えます。ひょっとすると、日本よりも外国のほうが、そういう見られ方をすでにしているところがあるかもしれない。「東北」といった文脈を一切知らない外国の観客が見ても、まったく支障なく見ることのできる強靭な作品性を持っていることは、やはりあらためておさえておく必要があるように思います。そして、そういう作品が生み出されたことの背景には、土方が日常的な稽古の現場から「バレエ」の普遍性をたえず意識していたことと無関係ではないように思いました。
『疱瘡譚』は、いわばバレエの分身のような作品だと思います。分身である以上、本体との間にはある「切断」があります。私は昨日『疱瘡譚』を見ながら、土方は、芸術的悪意と好奇心に満ちた分身を、見事に作り上げたように感じました。私はさきほど、土方の踊りを優美で上品だと表現しましたが、もしかするとこの言い方はあまり適切ではなかったかもしれません。土方の場合、普遍的な「美」そのものというよりは、普遍的な「美」の分身――たとえば、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」がもうひとりのウィリアム・ウィルソンに翻弄されるように、普遍的な「美」を翻弄しうるような、きわめて精巧につくられた「美」の似姿、といったほうが、『疱瘡譚』における土方の踊りと演出にはふさわしいような気がするからです。精巧な似姿である以上、それは本物以上に本物らしい瞬間がある。一見「美」の要素とは真逆の素材から、突然本物以上に美しい瞬間が立ちあがってきてしまったら、観客はたじろぎ、戸惑うしかありません。土方の批判精神、批評精神は、まさにこの部分に現われてきているように思います。そして、精巧な分身を作るためには、厳密な作業が必要になります。少しでも手を抜いて嘘っぽくなってしまったら、すべては水の泡に帰してしまうわけです。稽古場における土方の、ときには常軌を逸した厳格さは、稲田さんの本でも多くの関係者が証言していますが、そうした厳しさは、少しでも嘘っぽく見えてしまったら、すべてが台無しになってしまうことへの極度の警戒に由来していたのではないかという気がしています。嘘っぽくみえる第一の要因は、舞台に上がる身体が、普遍的な美の基準に照らして「美しくない」というところに、すでに存在しています。美しくないのに、なぜ、あなたは舞台上にいる必要があるのか。昨日の上映後の対談でも、土方が、「なぜ踊るのか」という根拠を稽古場で執拗に問い詰めていたこと、「一度表現意識が死んでからでないと本当の表現は生まれない」ことを徹底的に浸透させようとしていたことを、三上さんがお話くださっていましたが、その部分を徹底的にクリアしない限り、そもそも勝ち目などなかったということではないか。それはアスベスト館につぎつぎに入門してくる若手舞踏手に要求する以前に、そもそも土方が自分自身に突き付けた問いではなかったかと思います。
おそらく、そうした問いを彼自身に徹底的に突きつけたのが、今日その断片が上映された『土方巽と日本人――肉体の叛乱』ではなかったかと想像します。よく知られているように、基本的には土方巽のソロ、というコンセプトに立っている伝説的なこの作品は、『あんま』(63年)から『バラ色ダンス』(65年)に至る過程で共同作業をしていたハプニング的な環境から、自分自身を切断しようとしています。選択の仕方次第では、土方は先のような問い詰め方を自分にも他人にも課す必要はなかった。もしもハプニングのようなことをやるのであれば、ジョン・ケージの音楽が、どんな人のたてたどんな音でも音楽になりうるように、舞台上に立つ必然性などいささかも気にする必要はなかったからです。その意味で、このことは市川雅がよく指摘していたことだと思いますが、土方巽と厚木凡人が、同時代における二大巨頭だという見取り図は、あらためて確認しておいてよいように思います。ハプニングであり、ハプニングにきわめて血縁の近いマース・カニングハムのような「ポスト・モダンダンス」の存在を明らかに意識しながら、土方は、あくまでも「舞台上における表現」にこだわろうとした。ハプニングは、芸術と生活の一致、という観点から、そもそも「舞台上における表現」という発想自体を破壊しようとするわけですから、立脚点が違っています。けれども、ハプニングや「ポスト・モダンダンス」のような方法ではないが、さりとてバレエの美的基準に沿ったものでもない、まったく別の方法を、土方自身が、自分が踊りつづけるためにどうしても必要としていたのではないかと感じられます。そういう問題の立て方自体、きわめて明晰な思考だと思います。そして、そうした強烈な問題意識は、河出書房の『土方巽全集Ⅱ』におさめられた、澁澤龍彦との有名な対談のなかにはっきりと現われているように思います。
この対談は、その頃はまだ刊行されていた筑摩書房の『展望』という総合誌の1968年7月号に、「肉体の闇をむしる・・・」というタイトルで掲載されたものです。さきにあげた『土方巽と日本人――肉体の叛乱』が上演されたのは、1968年10月9日、10日の二日間ですから、7月号の発行が6月だとすると、対談自体は4月頃に行われたのかもしれません。しかも、さらに微妙な事情がここには絡んでいて、稲田さんの本にも書かれていますが、『肉体の叛乱』の公演は、実は最初は6月を予定しており、同じ年の3月にはすでにそのことを予告するポスターも作られていました。現に、この対談の最後には、澁澤が土方に向かって、「6月の公演はどうですか?」という意味の質問を行っています。土方がどういう事情で、なぜ公演を10月に変更したのかはわかりませんが、稽古のスケジュール的にみても、きわめてデリケートな時期に行われた対談であることが見て取れます。土方はこの対談記事の最後の発言として、「もう稽古をやっています。土方巽による土方巽ということをはっきりやらねばならぬ年に来たのじゃないかとひしひしと感じますね・・・」(全集Ⅱ、14頁)といっています。1968年という年は、もちろん社会的に大きな出来事が続発した年でもあったわけですが、同時に土方はこの年に40歳をむかえていたわけで、踊る身体という意味では、やっぱり年齢を意識せざるをえない節目にさしかかっていたこともあったのかもしれません。それでは、どのようにして「土方巽による土方巽をはっきりやる」のか、ということですが、対談の冒頭に、ひとつのその問題を解くてがかりと想定したらしいことが述べられています。そこで、土方は、同時代の「肉体」というものに対する姿勢を次のような言葉で批判しています。「やたらに肉体ということばがはんらんするんですね。ところが、その肉体を何か行為のために役立てようとか、そういうしかけがチラチラ見える」「ハプニングもそうだし、いまの新劇もそうだし、肉体を何かの起爆力として利用する。そこに私はうさんくささを見ますね。それとこの頃はやっている、それこそ衛生博覧会的なものがあるでしょう。要するにロマンティックな怪奇さですね」(全集Ⅱ、10頁)。さきほども言及しましたが、これ以前の作品においては、草月アートセンターやハイ・レッド・センターなどのように、ハプニング的なものとはかなり近い場所に土方はいたわけですから、ハプニングを批判する、ということは「土方の土方化」にとって、やはり非常に重要なことだったのではないか。そのハプニングがなぜだめなのか、という理由を、さらに土方はこう続けています。「ハプニングというのは不正確だからいやなんです。彼らは正確に行うと言っているのですが、そうじゃない。恐怖がないもの」。そして、この直後に、あたかも「不正確」に対する「正確さ」がどのようなものかを明らかにしようとするかのように、彼はあるひとつの「幼少期の思い出」を持ちだしています。「ぼくのおやじはへたな義太夫をやっていたのですが、おふくろをなぐるのですね。その時、子供の目にも、おふくろをなぐるとき、おやじは歩幅をきめてかかっているんじゃないかと見えた。それは確実に恐怖なわけです」。このエピソードを読んで、あらためて土方巽という人の、ごく普通の意味での言葉の見事さというのを感じますが、母親を殴ろうとするときの父親の「歩幅」というのが、鮮やかなイメージとして伝わってきます。それはおそらく、ハプニング的な不正確さとは真逆の、「正確な歩幅」だったのだろうと思います。「まるで最初からそのようにきめてかかっていたかのように見えた歩幅」が何センチであったのか、といったこととは無関係に、いわばイメージとしての歩幅の「正確さ」というものだけが浮き上がってくる。そしてそのイメージは、恐怖に基づいている。
「恐怖」は、ひとつの現実であり、現実であるかぎり、それは暴力的にそこに存在しているものです。土方の文章を読んでいると、幼少期の思い出として、「遊び」の要素のほかに、「恐怖」の要素がかなり多く入っている。「かざだるま」も「いづめ」もそうだし、「角巻にくるまれて夜の吹雪のなかを走る」というイメージにしてもそうです。いま引用したエピソードも、父親のふるうDVというのがあるわけですが、その恐怖が、「歩幅」の正確さという正確なイメージを生み出している。いわば、恐怖という現実の分身がそこに生み出されるところが、興味深いところだと思います。このイメージの正確さ、ということが、「土方の土方化」、いいかえれば土方自身がなぜ自分が踊るのか、という根拠を突き詰めていったとき、どうしてもはずせないポイントだったのではないか、と感じられるのです。『病める舞姫』をはじめとして、彼の文章にはさまざまな比喩がちりばめられている。そのなかには独特の地域性などによってたしかにわかりにくいものもありますが、総じて、私の印象では、通常言われているほど土方の文章の比喩はわかりにくいものではなく、むしろきわめて明確な輪郭をもっている比喩が多いという気がしています。そのような印象と、「正確さ」「正確なイメージ」を肉体の側に奪還したいという土方の先の発言は、私にはとても密接につながっているものに見えます。おそらくそういう「正確さ」との関係において、以下のような、非常に有名な言葉が言われています。「性別を越えた、凍てついた骨だとか、そういうものにかかわり合わないと舞踊家はだめなんじゃないかと思うんですよ。ただ、そこに行きつく前にいろいろ調べ上げていかないと疑似暗黒がはびこるし、すぐ風俗化してしまうものがある。それは時代の産物では確かにあるけれども、それをやっている人間がかいま見た風景がいいかげんなものですからね。(中略)自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところが、みんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね」(全集Ⅱ、11頁)。――最後の「外側ではなく内側」という部分などは、悪くすると、この自分の肉体におりていくという言葉は、一種の自分探しのようなものに誤解されそうな危険も含んでいると思うのですが、重要なのは、現実の正確な分身を現前させる、という意味で、この言葉が言われているのではないか、ということです。土方巽のからだのなかに、暴力的に存在しているさまざまなイメージ、そのイメージを呼び出し、暴力の「形」というものに置き換え、分身化するためには、「幼少期の記憶」あるいは「東北」という風土の、もっと呼び起こしやすい暴力の体系が必要とされたのではないか。ただし、それらはそこでの「現実=恐怖」に見合った「正確なイメージ=分身」に翻訳される必要がある。そしてそれはまさに、肉体によって翻訳される必要がある、ということではないか。いま引用した部分に「自分の肉体の中の井戸の水を飲む」、とか「自分の肉体の闇をむしって食う」とか、口にかかわる比喩が多いのは、とても面白いと思います。そのことは、土方巽の言葉、という点において、書くひとではなくしゃべる人であったことをあらためて連想させます。彼にとっては、しゃべることも、正確なイメージという現実の分身をえる、という意味で、踊ることと相当近い行為であったのではないでしょうか。口もまた肉体であるわけですから。
土方巽にとって、「芸術」というのは、ひとつの暴力だったと思います。あるいは、ひとつの不条理であったといってもよいのではないか。本当はなぜ美しくなければ舞台に立てないか、ということを合理的に説明できる原理は何ひとつない。それにもかかわらず、美しくなければそこに立てない、という美の原理、芸術の原理は、確固として目の前に存在している。そしてもうひとつの不条理は、彼が踊りたい、という欲望をすでにもってしまっている、ということではなかったか。そして踊りたい、という欲望は、美しくなければ舞台に立てない、という芸術の原理と結びついた形で存在してしまっているというジレンマがある。こうした自分のなかにおける欲望の存在、踊りたい、という欲望の存在もすでにひとつの暴力のようなものとしてある。「芸術」というもの、「踊りたい」という欲望が、否定しがたい形で暴力的に存在しているとき、その「謎」を解くための鍵として、「東北」という、もうひとつの暴力を仮説として設定したのではなかったか、というのが、『疱瘡譚』をあらためて昨日見直した直後の、私の率直な感想です。
そういうことを考えた上で、最後に、もうひとつの基本的な問い、つまり、「なぜ、いま、土方巽を見るのか」という問いに立ち返ってみたいと思います。「芸術」が、ひとつの暴力として存在していた時代は、おそらくいまでは過去のものとなっている。時代は変化した。いまでは当たり前のように言われていることですが、土方巽が生きていた時代に比べると、「芸術」はもっと細分化され、表情を和らげ、以前では考えられなかったようなものを「アート」として受け入れるようになっている。――私は昨日三上さんが紹介してくださった土方の言葉、「イメージのない技術はさびしい。技術のないイメージは危険だ」という言葉を思い出しています。「イメージ」とは、なぜそこにそういう形であるのか、という説明がつかない形で、暴力的にそこにあるものだと思います。土方にとって、「イメージ」の原型はすでに暴力的に目の前にあった。その「イメージ」をたんに危険なものとして終わらせないために、正確なイメージの分身を立ち上げるための厳密な技術が必要とされた。そのようにして、『疱瘡譚』に見られたような、あれほどの「芸術=技術」がそこに存在しえたのではないか。――現在、さまざまなものが「アート」として流通しているけれど、その多くは「イメージ」の暴力的な存在が弱いため、「技術」も弱い、というものが大半だと思います。その一方で、社会的な暴力性というのは、きわめて巧妙で、陰湿な形で、それが暴力である、ということが見えにくいような形で現前している。土方の時代は、芸術の暴力、社会の暴力が、かなり一元的な形で存在していましたが、いま私たちが生きている時代はそうではなくなっている。――もちろん、こうした大きな問題に、いますぐに答えを出すことはできませんが、ひとつだけたしかだと私には思えることは、時代の変化に対しては、やはり歴史に学ばなければならない、ということです。歴史に学ぶといっても、いままでのような歴史の読み方は通用しないので、新しい歴史の読み方が発明されなければならないのだと思います。そのとき、あらためて考えてみなければならないことは、土方巽が、「芸術」というある〈大きな問い〉に対して正面から向かい合おうとしたこと、その作品のなかには、その戦いの記録のようなものが、さまざまなレベルに刻みこまれていること。ベジャールやピナ・バウシュやフォーサイスやカントールや古橋悌二を見るのと同じように、私たちは土方の作品からも、「芸術」がどんな力を持ちうるのかをさまざまな角度から知ることができるということ。そこでやはり、こういうものができるだけよい条件で(よい条件というのがどんな条件かはたえず検討されなければなりませんが)できるだけ多くの人に見られるような上映会のようなものが組織される必要があるのではないかと感じた、ということがあります。
それからもうひとつだけ、それに関連して私が感じていることを付け加えさせていただくと、あくまでも雑駁な言い方をあえてしますが、土方巽にかんしては、その「固有性」という視点からは多くの人が語りたがる、という印象があるのですが、その「一般性」というか、もっと大きな文脈で、つまり20世紀芸術史におけるひとつの具体例として、他の20世紀の歴史的動向とならべて論じることができる大きさをもった作家だし、もっとそういう角度からの分析がなされていいのではないか、という気がしています。たとえば、土方巽における「切断」の問題というのは、明らかに20世紀芸術史全般と深くかかわっている問題であるし――数年前、河本真理さんという学者が「切断」という観点から20世紀のアヴァンギャルドを見直してみる、というおもしろそうな本がでましたが――、さまざまな作家の「切断」と比較することによって、土方的な切断の意味が、もっと鮮明になる可能性があるのではないか。その点でいえば、宇野さんの「映像身体学」的な視点も、同じような歴史の読み直しを目指したものとして、そうした視点に私も強く共感しています。映像というのも、持続と切断の問題ですから。私はいまなお有効な「芸術」の定義とは、現実という暴力に対する分身を、ときにはユーモアにあふれた分身を作り出す思想と技術のことだと勝手にいま考えているところです。そのような観点から、これからも土方巽を、開かれた地点から見直していきたいと思っています。