
研究会の記録
三上賀代×森下隆「舞踏譜を巡って」
- 山田
- こんばんは。京都造形芸術大学舞台芸術研究センターの山田と申します。この土方巽をめぐる会は今年3回目で、今日から3日間、集中した会を持ちます。
まず始めに、今日の映像、『疱瘡潭』のフルバージョンというのは、ほとんど見られないんですけど、これを始めとして明日、明後日の映像は全てこちらにいらっしゃる慶応義塾大学土方巽アーカイブの森下さんのご協力で私たちは見ることが出来るようになりました。森下さんどうもありがとうございます。
この研究会は土方巽の舞台だけではなく、言葉をめぐっても色々な対話を重ねていっているんですけど、今日は映像をフルで見た後ですので、ゲストに「とりふね舞踏舍」主宰で、京都精華大学で世界でたった一つの暗黒舞踏ゼミというのを開いていらっしゃる三上賀代さんをお呼びしました。前回も森下さんを中心に舞踏譜の問題というのが話されて来たんですけども、ここからは森下さんにお任せして40分程ですけど、舞踏譜だけでなくても結構ですがお二人でお話し頂けたらと思います。よろしくお願いします。
- 森下
- いまご紹介にあずかりました森下です。京都は大変暑くて、東京から出てきたらもうコートはいらないような気候で暑いくらいですね。桜も咲いているのかもしれませんけども。
今日は『疱瘡潭』を見ていただきました。決して完全なバージョンではなくて細かいところ潰れてしまっている映像で申し訳ないんですが、少し前に京都大学の方で16ミリのフィルムで上映をしました。おそらくそれが16ミリで上映する最後かなと思いながら上映しました。実は我々もこの映像を少し良くしようと、改めて良い状態でデジタル化しようと進めていますので、もう少しお時間いただければもっと良い状態で見ていただけるようになると思います。今日は残念ながらそこまでいかなかったんですけども。95分、全部を見ていただけたので大変良かったかなと思います。
今日の話は「舞踏譜をめぐって」ということなんですけども、隣にいらっしゃる三上賀代さんは土方の舞踏譜研究のパイオニアであり且つ第一人者と言っていいと思います。今、私がこちらにお持ちしているのは土方巽研究ということで、『暗黒舞踏技法試論』という三上さんの学位論文のコピーをお持ちしてます。これは私どもの土方アーカイブにありますので、これを一冊読んでいただくと三上さんの土方さんの舞踏譜研究の一番基本になるところ、神髄と言っていいかと思いますけど、お分かりになるかと思います。
今日はこれだけのもの全てをお話しする訳にはまいりませんので、私が聞き手になりまして、三上さんの舞踏譜についての研究のコアになるものを是非お話し頂きたいと思っています。突然舞踏譜にいってもあれなので、少しこの1年三上さんもずっと海外で動かれて色々なものを見たり、色々な方とお話しされているのでその辺の報告から少ししていただきましょうか、どうでしょうか?
- 三上
- 三上です。宜しくお願いします。まず、私はこの作品『疱瘡潭』には出ていません。これだけではなく、私は土方先生の公演の舞台には一度も出ていない。もしこれに出ていたら私はここまで舞踏を引っ張らなかった気がします。
私は78年から81年まで土方先生のところにいました。その間土方先生は、ショークラブを経営していました。赤坂、六本木、銀座、新宿と最後には6軒もの店になって、芦川羊子さん、境野ひろみさん、私、あと2人の女の子で、基本的にはね、店を掛け持ちして踊っていました。私は舞台をやりたかったんですね。でも夕方5時から朝5時までその店を掛け持ちする。目利きたちの来るような、1回座れば1万5千円とるような店でした。それが、舞踏は素材が悪いのが良いと言われるくらいに素材の悪い人間、私のような芸もない人間が店でそういう目利きたち、例えば大企業の副社長が赤坂芸者たちを引き連れて店を貸し切って、それでショーを見せるというようなことをしていました。そのショーの振り付け記録が私にとっての舞踏譜だったんですね。
土方先生はその5、6軒の店を全部自分で、舞踏譜で振り付けて衣装も考えて音楽も自分で決めていました。ただ、ショーですからね、地唄舞がお座敷芸として色を売ったら成立しないように、気をつけていました。私は芦川羊子さんになりたかったんですね、芦川羊子に憧れ続けたんですけども結局は舞台に立てないまま出て来てしまった。土方先生の最初の店はキャラメルという名前で、赤坂のショークラブのコルドン・ブルーの裏にありました。
そのキャラメルのオープニングで芦川さんがソロで山口百恵の『曼珠沙華』で踊ったんですけど、それはそれは美しい踊りで、山本萌さんは、これは白桃房の踊りだよって言ったくらいに美しい踊りでした。そういう舞踏譜を、先生が機関銃のように投げつけて行く言葉、「ミショー、朔太郎のバカ、ベルメール…」といったものを私がノートに採ってみんなに伝えるような役を、私は耳が良かったものですから、果たしていました。
やっぱりそれはショーはショーであったんですけど。81年に逃げ出して、86年まで踊りたいけど、どうやって踊ったらいいのか分からないで、体のことやっていればいつか踊れるかも知れないと思って、野口体操の野口三千三先生の所に通っていました。で、86年に土方先生が亡くなった時、あぁやっぱり踊らなきゃ死ねないって思いました。
じゃあ先生がどうやって踊りを作ったのか、何を考えていたのかって考えた時に、手元にノートは何冊かしか残っていなかったんですね。ほとんど着の身着のまま逃げましたから。それで茜ちゃんっていう一緒にやっていた子と、一由君っていう山本萌さんの舞台なんかにも出ていた人の3人の稽古ノートにある舞踏譜をベースに、後は先生の公表された言語資料から土方の舞踏とは何か、どうやって踊りを作ったのかという論を組み立てたのが91年の修士論文です。
私が大学院で研究を始めたとき、「君の仕事は土方の言語を日本語にすること」とある美学者に言われました。慶応の土方アーカイブもない時代で、乏しい自分の資料に加え他のものも手探りで集め、舞踏譜をカード分類するなど研究方法もまったくの手探りでした。その修士論文を元に93年『器としての身体』が出版されました。これが土方研究の最初、舞踏譜の初公開となりました。市川雅さんが「四章の舞踏技法以降は僕たち外部には手のでないところ」と舞踏譜の公開を喜んでくれました。
市川先生の大学院の授業でも「ドカタ・セン」とかって舞踊教育の学生が読むような時代で、私が大学院に入ろうとした時も、大学院の舞踊じゃない先生たちは、「踊りたいなら踊ってりゃいいじゃないか」って。アングラからは「土方やるのになんで大学に行かなきゃいけないんだ、アカデミズムに行かなきゃいけないんだ」って言われて。アングラからもアカデミズムからも白い目というか、拒絶されるような感じでした。だから今日、大学で土方シンポジウムがあり、私がしゃべるようなことが起こっているということが私自身信じられないような思いです。そして、拙い土方論を書くなどというとんでもないことをしてしまったと思いながら、今後の叩き台にと、恐る恐る出版してもらった『器としての身体』を、実践の人たちは、「三上さんよく分かった、バイブルだよ」って言ってくれました。国内外の人たちが。でも後はほとんど無視の状態でした。
今回、外国に行ってみて『器としての身体』が舞踏理解の手引書、教科書になっているんだなっていうことはよく分かりました。「舞踏譜で教えているよ」って、若い人が言うので「舞踏譜ってなあに?」「虫の歩行とかね…」っていう感じで皆さんが、“器本”で分かったことを教えるということが理解されて、自分がやって来たことがまんざら間違いじゃなかったっていうことを思いました。
これは自慢ではなく、「舞踏とは何か」っていうことを今日映像を見ながら考えていました。私は“型”っていう言葉を使ったのは失敗したかなと少し思っているんですけど、一番最小の動きとか形を組み合わせていけば作品になると思います。でも、やっぱり土方先生の動きと言葉が生まれてくる必然性と、それを伝えていく必然性あって、舞踏譜は伝承可能か、という問題は簡単ではないと思います。
既成の舞踊、表現を壊していったアングラの舞踏が、クラッシックと呼ばれ、それこそ思っていた以上に広く深く世界中に根をはった今、舞踏譜研究は、身体と表現の可能性として考えられなければならないと思います。先生は「僕も人がいいから乗り移っちゃって」って芦川さんとのことを書いていますけど、やっぱり何かを伝えるということは、身ぐるみだから先生は自分が踊った方が楽なくらいのところで、芦川さんの体に移したと思います。
で、私も、自分の関東の家の稽古場に、毎週京都から片道13時間もかけて通ってくれるような学生たちが出て来た時に、「一回死になさい、一回殺されないと表現性というのは削がれないのです」ということが少しずつわかってくるんです。そのぐらいして、叩いても転がしても表現性というのは奪われない。そういうところは海外にいってワークショップだけ受けて、師匠のいない舞踏家、海外で舞踏家になる人たち外人も日本人も含めてそういう人たちを見ていた時に、すごく器用だし、色んな語彙が入ってるし、できるんですね。でもやっぱりここからは新しい、オリジナルなものは生まれない、と思いました。教科書以上のところから「自分がどうして踊るんだ」っていうことの必死の問いかけがないっていうこと。
土方さんのところにきて芦川さんは3年間転がされたままだったそうです。ちょっとオーバーだとは思いますけど、まんざらの嘘じゃないと思う。玉野さんだって何ヶ月か転がされたままだった。で、転がされているうちに、何を考えてるかって、こんなはずじゃなかった、踊りって何なんだろう、自分は何で踊るんだろうということを問われる訳ですね。
芦川さんは立った時はもう人間でなくなった、猫の視線になっていたと言います。で、そこからしか踊りは生まれないんだっていうことを問うためにはやっぱり師匠の目がいると思うんです。土方さんの目は恐かったですから。私は今はもう怠け者になって、ここにきてワサワサするのはおまえ違うんじゃない? っていう先生の声が聞こえるような気がするんですけど。こんな私が見せられるのは、「しっかり死んでこいよ」っていう先生の目の中で、自分が何を見せられるのかっていう問いかけがきちんとなければ人前には立てないんだっていうことを死ぬ程教えられたような気がしています。
- 森下
- 師匠と弟子というのは非常に舞踏にとっては大事な問題で、私もあまり触れてませんし、少し書いたことがありますけども、どう考えればいいのかっていうことですね。さきほどちょっと仰ってましたが今回海外を回ってこられて、ご自身の舞踏についてももう一度見直すっていうことはあったわけですよね。その辺を一言。
- 三上
- 歳を越えたんですね、土方先生は57歳を迎えられなかった、25年前に亡くなって。その歳を私はもう今度、越えるんですね。で、やっぱり先生が、なんで44歳で女になったか、なぜ自分のからだに姉を住まわせたのかっていうこと。40越えた男の体っていうのは先生にとっては耐えられなかったんだと思う。
私が思うにはね、私は先生が生きなかった女の体、もうちょっと歳をとってくれば何とかなるかも知れないけど、今一番どうしようもない時ですね。腐った牛肉にもなれないし。でも今日初めてね、今までは映像見ると、すごい集中して泣くんですけど、すごくワサワサワサワサして自分がもだえてるんですね、見ながら。
それは今までは「先生、先生」って思ってた。ああ、芦川さんになりたいんだ、あんな理科の先生みたいに自分の体をバーンと突き放して、捨てて、もう女の生理なんか何もないように人形と憑依の間をパッパッと行き交えるような、ああいう人になりたかったんだけど、私、汁気がたっぷりですから、それをどうしたらいいのかっていうことでずっと来たんだけど。でもそうね、これを受け入れて私は先生が生きなかった時間をこれから生きるんだから。やっぱり畳んだり小さくなったりして。
今日、長くバレエやってる、うちの暗黒舞踏ゼミの卒業生が映像見て「やっぱりすごいです」って言うんですね。「あれはみんな身体能力のない素人集団がやっていたんだ」って言ったら、「そんなことありません。ああいう体を細かく粒子化できる人たちだったらバレエも踊れます」っていうんだけど、とてもじゃないけどバレエは踊れない。畳み方とか転がり方とか小さくなるとかね、クックッと中から伸びていくとか、バラバラに神経を持っていくとかっていう方法論が、やっぱり一気に火傷をするような形で、言語から身体にイメージというのを介在しないで「火傷は一気にするもの」っていう形で叩き込まれたから、あんなかわいいことができたんじゃないかなって思いました。
- 森下
- 稚拙っていうと語弊があるんですけど、土方舞踏を体現しているとは彼女たちは思えないんですけども、それでもここが舞踏の出発点であることは間違いないですね。もちろん先生は舞踏譜の舞踏を始めているし、お弟子さんたちもそれに取り組んで来ているんですけども、舞踏譜というものの核心をもう一度改めて三上さんに伺いたいと思います。
- 三上
- 自己放棄。なぜ踊るのか。どうしてもこれやらないと無理という所まで自分に問い、そして、やっぱり技術の獲得。芦川さんも言ったように「舞踏は技術だよ」と。私もそうだと思う。でも先生が「イメージのない技術は暗い、技術のないイメージは危うい」っていう言い方をしているけど、イメージと技術の問題というのも簡単には言えない。
でも技術がなくてもすごい舞踏家はいるわけですね。例えば、言ってはいけないのかな、境野さんが去年の暮れ、すごい舞踏を踊っていましたね。私は見に行かれなかったんですけどもYou tubeで見てびっくりしました。境野ひろみさんは、25年前、先生が亡くなった時にソロを始めたんですね、掃除婦をしながら。私は研究をしながら始めた。彼女は本当に不器用で、右行けって言われたら左行って先生が彼女を持って運ぶような。でも彼女は白桃房時代に全作品に出ていたんですね。もう置物のように置かれたり運ばれたり。で、その不器用な彼女が去年股関節手術して、ぽとって一歩出した時に、ああ、やられたって思ったんですね。
それは何だったのかということ。それは技術でしょうか。存在の腹のくくり方と構え方、そして体への向き合い方だと思うんですね。私は素晴らしい踊りだと思いました。で、境野さんに芦川羊子のような技術があるのか、あの切れのいい捨ての技術があるのか、消える技術があるのかって言ったらそうじゃない。でもすごい踊りですね。合田成男さんは去年で一番いい踊りだって言ってたように。私もそう思った。
- 森下
- 境野さんは私も好きな舞踏家で、そのかわり絶対に宣伝をしない。だから5人、10人の客の前で踊っているのを私も見てるけど、やはり彼女はそういう意味では踊り続けたことがすごかったですね。
- 三上
- 大変だった。大変だった。もうそりゃ、ひろみちゃん大暴れしてたんです。だけど、あそこでストンと落ちるものがあるということ。それがやっぱり舞踏が持っているすごさ。だからこの前、合田(成男)さんが、いみじくも言ったんだけどね、舞踏の文体っていうことで。「文学でも評論でもない言葉で読み物が出来るんだってことを発見したんだよ土方は」って。私は土方先生が書いているものもそうだし、舞踏の語彙もそうだと思う。これはすごい合田さんの名言だと私は思います。やっぱりそういう人たちの声を聞き取っていかなければもったいないと思う。ずっと見続けて50年かけてきた人の声をね。ここで私なんかがしゃべるより、と思ったりします。すいません。
- 森下
- 合田さんは十分喋られてるし(笑)、それをきちっと出していく人がいないのは残念ですけどね。
- 三上
- 『病める舞姫』だってね、合田さんは講読会を何十年もやってるわけですね。で、それの聞き取りをしている人もいるっていうけれども、やっぱり今そういうことがちゃんと、合田さんが何をどこまで言ったのかっていうことがきちんとまとめられたらいいと思います。
- 森下
- 舞踏譜についてみなさんおそらくご存じないんで、その話しを少し。三上さんの研究の一端にしかならないと思いますけども。
- 三上
- 例えば、「寸法となって移行する。頭上の水盤、足の下にカミソリの刃、あらゆる関節が蜘蛛の糸で吊られている、空洞の内蔵、奥歯の森に風、額の一つ目、ガラスの目玉・・・」っていうように言葉でずっと追いつめていくんですね。その言葉に関わる神経や意識のあり方で体のある状態や動きが出てくる。土方さんの言葉には、ある種催眠術のようなところがありました。先生が亡くなって研究を始めた時に私は芦川さんのところと和栗さんのところ、両方に行ったんですね。芦川さんは先生と同じ言葉言うんだけど違うんですね。やっぱり自分の言葉で喋ってる人と解釈して体を追いつめていく人との違い。全く違うものに私は感じました。今回、和栗さんはきちんとした動き、ベーコンとか舞踏譜の個々の動きやシークエンスをアーカイブでビデオ化、映像化していると伺いました。
- 森下
- ええ、映像でコレクションしてると思いますね。
- 三上
- 結局舞踏譜とは何かということになってくると、表現しない表現のための、意識や感覚や神経回路再創造のために、言語によるイメージの飛躍の手がかりではないか、と考えられます。そのためには肉はいらない。煙のように粒子化された身体が空間化していく。消えたり滲んだり煤けたり体の境界を溶解していって空間化していく。そういうことを最終的に目指したんじゃないかな。体が消えていくような状態。
で、こうした土方舞踏技法に関して、私は消える構造と題して89年から発表してきました。私と友達は、78年の土方先生のワークショップで芦川さんが本当に消えちゃったように思ったんですね。木目で消えますみたいな感じで。下からずっと木目を意識していった時にふっと気配が消えるような感じで、本当に消えてしまったようなイメージがあったんです。それで、身体、言葉、踊りがディコンストラクションしていくっていうようなことで研究を進めてきたんですけど。グジャグジャになってる?
- 森下
- ちょっと初めて聞く人は分かりにくいかも(笑)。消滅にいくまでの三上さんの舞踏譜についての解釈、解説を少ししていただけますか。
- 三上
- 「表現できるものは表現しないことによって、現われてくるんじゃないのかい」っていう土方先生の言葉に示される、「表現しない表現」のために舞踏譜はあると私は思います。
それは踊り手の表現意図が観客に読まれてはいけない、花や木や石は表現しないで存在している、そうした森羅万象の存在と動きを求めて土方は「神経のありかをポワント」として、表現しない表現、動き、身体のあり方の創出法を言語化したと考えます。土方先生や野口先生のすごいところは、自分の身体感覚を言語化している。土方先生は舞踏譜という形で。身体をやっている人は言語が必要なくなるわけですね。身体の方が楽しいから。
土方先生は自分の求める世界を創るために、弟子の身体、動きを導くため舞踏譜という形で自分の感覚を言語化した。世阿弥は「わが心我にも隠す安心」という言葉で、踊り手の意識の糸の存在を演者自身が忘れる必要を言っている。土方は、「押し出されて出てくる動きの原理」という方法論で、手の甲に一匹の虫が這ったらかゆくて首がこう動く、二匹目背中から、三匹目お股から来たらこうなる、っていう風に虫に食われて続けていって動きが生み出されていく、受動して動いていく。最後は毛穴を出入りする何万匹の虫、その状態さえ虫にくわれると、あらゆる条件を受動していくという形で動きを生み出すことを舞踏譜としてやったんではないかというのが私の舞踏譜研究です。
- 森下
- そうですね、うん。みなさんから質問もあったほうがいいかも知れないですね。お分かりになっていただければいいですけど、気になる方はどうぞ手をあげて質問してくださいね。どうでしょうか。
- 質問者1
- 初めて男性の舞踏を見たんですけども、土方さんの舞踏の髪型がタマネギ型で、あれは女性独自のものですよね。だけどあれに男性的な色気をすごく感じたんですけど、先生がおっしゃっていたのは女性になりたかったというようなことをおっしゃっていたので。
- 三上
- なりたいというより異化したかったんでしょうね、自分の身体をね。生はやっぱり美しくない、っていう美意識はもちろんみんなあるんだけれども、男には特に女の部分がすごくあるような気がする。地唄舞の井上八千代さんなんかも本当に女の生理がなくて、ふっていう感じでいられる。やっぱり自分の性を異化するところに美しさがある。でもあなたが男の色気を感じたって言うことはそのジェンダーをひっくり返してもうひとつ先の色気を感じたんじゃないかなって私は思いますけど。
- 森下
- いいですか?
- 質問者1
- 先生の話しを伺って、私舞踏を分かっていなかったのかなって。間違って解釈してたのかなって思ったんですけど。
- 三上
- 間違いなんてないよ何も。たぶん。あなたが感じたことがそのまま。だと思う。
精華大学で土方さんのビデオ見せるとね、音楽やってる子たちが多いんだけど「やっぱり俺達はジミヘン、ジミー・ヘンドリックスには手を出さない。ジミヘン触りにいった三上先生すごいよな」と。私、土方先生を最初に見て、ここに行こうって気が狂って行くんだけど、5年かかるわけ。やっぱり恐かったですね。で、見もしなかった。見てもないんです。私一回見ただけで近づかなかったんです恐ろしくて。で、それがはまっちゃったんですね。それは何だったのかって、今もう人生終盤に向かって自分自身に問い続けてるんですけど。
- 質問者2
- 土方さんというのは先に言語があって、それを身体で表現しようとされたのか、まず体の動きありきで後からそれを言語化しようとされたのか、一体どちらなんですかね。
- 三上
- まあ舞踏譜が出来たのは弟子たちに伝えようと思ったからではないでしょうか。最初の頃はどうなんでしょうね。やっぱり自分がイメージしたりとか、動きはこうでこうでっていう感じで、どうも大野先生と一緒に稽古会やってたあたりから、私は言葉というものが非常に重要になってきた気がするんですね。
そこを私はちょっと知りたいなと思っているところなんですけども。60年のあのころに大野一雄さんの言葉と土方さんの言葉って重なっているところがけっこうあるんですね。大野さんと先生はアスベスト館で一緒に稽古していた時期がある。後ろから土方先生はふっと覗きながら、大野さんが言葉でやってるのを見ている。私はそういうのは土方先生の舞踏譜とちょっとどこか関係あるかなっていう気はします。
言葉っていうけど、先生は物語はできないんだって、紙芝居みたいに絵をパッパッパって置いていくって、これは玉野さんがおっしゃっていましたけど、そういう言い方をしていましたよね。
- 森下
- 他にどうですか?難しいので少しでもなにかきっかけを持って帰ってもらいたいと思います。
- 三上
- 私は言葉にひっかかりました。最初に行った時に「赤ん坊抱いてるだろう、ポトンと落としたくなるんだよ。ベチャーって割れるだろうスイカみたいに」って言われた時に、あ、自分と同じ感覚の人がいるんだっていう感じがしたんですね。そういう風な言葉。そして、舞踏譜に関してもかちんと決定されたものではなく、その時々で変わっています。書いては消し、書いては消しという作業があった。弟子たちを見ながらね。
ショーではあっても朝から晩まで365日踊っていて、からだの方がすべっていく感じが出てきた頃、稽古場で先生の振りを見てもらっていた時、からだの方がすべりだした。芦川さんが「こずえちゃん、違うよ」って振りの間違いを指摘したんです。そしたら先生は「それでいい」って。弟子を見ながら弟子との関係の中で舞踏譜は修正され作られていったと考えられます。
- 質問者3
- 踊りとしてみえるんじゃなくて、私、キリスト教徒なんですけど土方さんがキリストに見えて、生き物の尊厳というものを前に出しているように、神々しく見えたんですけど。
私はこれを見て、太田省吾さんの「水の駅」を思い出しました。言葉というものがそういうように表現されていましたし、言葉と言葉の連結が切れているような状態で踊りをされているように見えました。
- 三上
- 切断の見事さだと思いますね。繋がらないで突然、バタッと落ちたりっていうことができる。「森羅万象あらゆるものをメタモルフォーズする人間の肉体の可能性による人間概念の拡張を舞踏の根本理念とする」と土方さんが言っているように、もっと私たちには虫けらだったり胎児だったり木だったり石だったり、そういう時間を生きてきた体があるんだからそういうものにもっと目を向けなさいよってことだと思うから。そういう変貌の速度、切断の速度。私が土方に見たキリストは、土方が受苦の果ての光そのものに見えたから。
- 質問者4(宇野邦一)
- 舞踏譜という言葉が使われるようになったのはいつで、舞踏譜というものが存在するようになったのはいつからなんでしょうっていう質問が一つ。
60年代の土方さんの文章の言葉と、『病める舞姫』の言葉はものすごく質が変わっているわけですね。なぜあんなに質がかわったんでしょうか。
- 三上
- 舞踏譜に関しては、私の言葉で出していないんですよね。だから後のほうでみなさんが言い出したということです。
- 森下
- 存在そのものは芦川さんが68年に突然土方に舞台を作るように言われて、実際芦川さんは踊れなかったんですけど、おそらく土方はその時に舞踏譜で芦川さんを教えないとだめだろうと発想したと思います。少し言葉を芦川さんに与えて、即席で踊らせたと。おそらくそれが最初だと思いますね。だけど本格的に出てきたのは72年の少し前から。舞踏譜というものを意識して作られてる。ただ舞踏譜という言葉を土方が言っているとは思えないので。やはり先生が亡くなられてから我々が舞踏譜というものを意識してるし、三上さんが参照された…。
- 三上
- 稽古ノート。
- 森下
- そうですね、稽古ノート。そういうものだったと思います。それをある時期から舞踏譜と言ってます。我々はスクラップブックっていうようなものもアーカイブにありますけども、これも舞踏譜と言っています。もちろんこれは舞踏譜じゃないんですけど、あえてこれを舞踏譜といって土方の動きが作られていくプロセスを参照するものをとりあえず舞踏譜と呼んでます。土方自身は舞踏譜、あるいは舞踏譜の舞踏ということは言っていないと思います。あと、も一つ質問なんでしたっけ。
- 三上
- 『病める舞姫』と、「刑務所」あたりのもの。たぶん、私この歳になって思うんですけど、芦川さんの白桃房が終わって二人が乾杯したくらいに素晴らしい、ある種、貯金で生きていこうと思えばいけるような技法ができたわけです。完成したんですよね。で、その時にふと自分が何で、って思ったんじゃないかな。やっぱり心弱くなってくると色々なものが見えるわけですね。先生は踊る時にしっかり死ななきゃダメだっていう言い方する。元気はつらつの時は見えない。ふっと弱くなった時に色んな世界が見えたような気が、私はします。色々は解釈があるでしょうけど。
- 森下
- これは『病める舞姫』の問題になるので明日、明後日またこの問題が出てくると思いますけども、ぜひ宇野先生をはじめとして『病める舞姫』を徹底的に研究して欲しいと私も思っています。
つい3月9日、土方の誕生日に私も不遜にも『病める舞姫』を秋田弁で朗読するという会をやってきたところでますます『病める舞姫』は気になってるんですけども。是非みなさんにももっと『病める舞姫』を読んでもらって研究して欲しいと思います。得るところがいっぱいあると思うんで。もちろん初期の頃の文章、死刑囚の歩行というようなところから始まっていると思うんですね。そこが舞踏の根源だと思いますけども、そこから始まって『病める舞姫』まできている。
- 三上
- 全然違いますよね。本当に違うと思う。だからあれは、いつも枕元に置いてあるんだけど手がでないね。やっぱり、うん。大変な本です。
- 森下
- お時間になったのでもしあればお一人だけ是非。はいどうぞ。
- 質問者5
- 映像でアーカイブをとられるというお話をされていたと思うんですけれども、今回の土方先生が映像に写っているところというのは、私は実は初めてみたんですが、目に頼った情報というか、ものすごく削がれているところがあるんじゃないかなという気が私はものすごくしたんです。映像になってしまうと、生で見る情報の3分の1だったり、4分の1になってしまっているんじゃないかなという気持ちに私はなってしまったんですけど、映像としてアーカイブを残すって本当にごくわずかな一部を残すという意味で映像という手法を使われるのは一つの手法だと思うんですけど。たぶん舞踏譜にしろ、正確に伝えるということは不可能になってくるんじゃないかなというふうに感じました。その中で重要なのは例えば人となりだったりとか、もっと人間としてその人が生きてきた過程だったりというのが本当はアーカイブとして重要になってくるんじゃないのかなという気もするんです。その辺はどのようにお考えでしょう。
- 森下
- まさしくその通りです。それが一番大きな問題ですね。ただ、アーカイブは過去の資料を蓄積して保存して公開するということと同時に研究された成果をもう一度フィードバックして資料化して残そうという意志が土方アーカイブといいますか、慶応大学のアートセンターにあるので、その試みを行っているのですね。ご指摘のように映像で残したから土方の舞踏の優れたところがみなさんに伝わるかどうかというのは別で、これはあくまで研究資料として残すということですね。
前回も言いましたけども、我々がそれをうまく生かせるとは思っていないので、ダンサーの人がそれを汲み取って自分のクリエーションの中で再構築していただくということを将来にかけてる、ということしか今は言えないと思います。今の質問のお答えになってないと思いますけど、今日の三上さんのお話も含めてアーカイブでも考えてみたいと思います。
- 三上
- 最後もう一つ。前回の研究会に渡邊守章さんから土着性のお話があったんですけど、確かに民族性というのは身体のね、今回外国で見て舞踏だなって思ったのが二つあったんです。私、81年に土方さんのところを飛び出してニューヨーク行って、市川さんにベネズエラに連れて行ってもらって、初めてポーランドのカントールを見た時にもそう思ったんですけども、今回もジプシーのダンサーが踊ってるのが、あ、これ舞踏入ってるなって思ったら、やっぱり誰か舞踏の人が演出してたんです。体の集中感が違うんですね。あともう一つはアルジェリアの独立戦争をテーマにした、ノン・ダンス。超絶技巧の人たちがほとんど踊らない。一瞬だけ首が落ちるかっていうくらい長い時間、若い女の子が一人自転する。後は何も起こらないのをやってたんです。それも舞踏だと思った。なんでそれを舞踏だと思うんだろうと。それはやっぱりその作家が生きてきた時間とか風土とか背負っているもの、その人がアルジェリアの戦争の時にいなかったとしてもやっぱり家族が体験したことを自分の中で肌身にあるようなところが舞踏性というところに近づいてくるんじゃないかなっていう気がしました。
- 森下
- 舞踏性という言葉、一言で私も解説できませんが是非この3日間の間通われる方は舞踏性という言葉をキーワードにして考えていただければ大変嬉しいと思います。短い時間で大変申し訳ないんですけども、今日の私と三上さんとの対談を終わることにします。どうもありがとうございました。