川村 毅
パゾリーニ戯曲連続上演企画は今回いよいよ最後を迎えます。ひとえに皆様方のご支援、激励のたまものと感謝いたします。 今回の公演でもって、ミラノのガルザンティ社より出版されているパゾリーニ全集の戯曲編に掲載されている六本すべての上演を行ったことになります。『オルジア』のリーディング公演に始まり、『豚小屋』、『騙り。』、『文体の獣』と経て、今回最終章『カルデロン』の上演と『ピュラデス』のリーディング公演に至りました。
パゾリーニ戯曲との旅は決して楽なものではありません。彼の書く戯曲はその映画と同様、既成のオーソドックスな手法から限りなく逸脱したもので、翻訳されてきた戯曲を一読後しばし呆然という事態もありました。しかし、それはアンチ・テアトルと名付けてしまうには、劇的とも呼べる生々しさと血なまぐさを抱えているので、ここはポスト・ドラマ戯曲として読み、演出するのが正解なのではと思い至りました。そう考えが及びますと、まだ実現の日の目を見ていない私の脳内の演劇言語がこの戯曲において活用できると、演出家としての私が挑発され、鼓舞されることになりました。
おそらく、パゾリーニにとってまっとうな出来のいい、わかりやすい戯曲は彼が懐疑する資本主義であるに過ぎないということでしょう。しかし、戯曲はただただ難解なのではなく、ある種の哀しみという叙情性が潜んでいます。私がパゾリーニに魅かれるのは、この哀しみのせいもあるのかも知れません。
『カルデロン』はスペインの劇作家カルデロンの『人の世は夢』を、『ピュラデス』はオレステス、エレクトラらが登場人物のギリシャ悲劇をもとにして書かれています。
資本主義という名のファシズムとの闘いはそのまま人世の哀しみを超えようとする闘いへと、白いシャツにゆっくり血が滲んでいくかのように浸透していきます。その光景は苛烈さ故に残酷な美を呼び起こします。