笠井叡新作『今晩は荒れ模様』

笠井叡 独占ロングインタヴュー
「今晩は荒れ模様」を前にして―
いま、ダンスをするということ
インタヴュアー:森山直人(演劇批評家/舞台芸術研究センター主任研究員)

お読みいただく前に・・・
ここに掲載するのは、京都芸術劇場・春秋座で
4月末に行われるダンス公演
『今晩は荒れ模様』を前にして、
振付家の笠井叡氏に行ったインタビューです。
これまで、公演前のインタビューは、
作家や演出家に、コンパクトに公演の内容や
見所を語っていただくものですが、
今回、話し始めると、あまりの話の面白さに
スタッフ一同すっかり笠井さんの虜になってしまい、
カットするのは、あまりにもったいないので、
思い切って、いっそ全部載せてしまおう、
ということになったものです。
50年を超えるキャリアをもつ
笠井さんの語り口は、実に明晰で、
ダイナミックなものです。
そしてまた、いま、この時代に
ダンスをするとはどういうことか、
ということについて、とても深い洞察に満ちています。
読みやすい長さにところどころまとめて見ましたので、
気になったところから、どんな順序でもかまいませんので、
お時間のあるときにお読みいただければ幸いです。
第1話「0秒」を振り付けてみたい 第2話わたしの「振付関係」の原点は 第3話イマジネーションは、客観的である 第4話ダンスは戦争を、根源的なところで引き受けなければならない 第5話戦争を超えることができるのは、女性の身体・・・

第1話

「0秒」を振り付けてみたい・・・

森山
笠井さんは、いままでこの劇場で3度ご出演いただいています。 ダンス作品は2003年(『花粉革命』)と11年(『血は特別のジュースだ』)、 それから川村毅さんが演出なさった演劇作品への出演 (『AOI/KOMACHI』、03年)がありました。 実は今日、笠井さんとお会いするので 『花粉革命』の記録映像を観てきたんです。 見始めたら止まらなくなってしまって、 結局、明け方の5時になっちゃいまして・・・。
「血は特別なジュースだ」写真:清水俊洋
笠井
あらら(笑)。
森山
公演後に開催されたシンポジウムまで、全部聞いてしまった。 ・・・もう10年以上前の記録ですけど、 パフォーマンスもディスカッションも全然古びていなくて驚きました。 シンポジウムの方は二部制になっていて、 第一部は、上方舞・山村流家元の山村友五郎(当時は山村若)さんと 批評家の小林昌廣さんのトークショー(「舞・踊・振――伝統と現代」)、 第二部が笠井さんと山田せつ子さん、 中田節さん、八角聡仁さんによるディスカッション (「身体・言語・空間――『花粉革命』の宇宙」)。 とにかく途中から目が離せなくなって、 結局食い入るように最後まで観てしまったというか・・・。
笠井
それは恐れ入ります(笑)。
森山
ご本人を前にすると薄っぺらく聴こえてしまって困るんですけれども、 本当に圧倒されました。 強いて言葉にすると「やっぱり追いつけないなあ」って感じなんです。 でも、「追いつけない」という感じは、考えてみると、 笠井さんの作品を最初に観た時から思っていたような気がします。 一種のスピード感、速度ですね。 ある瞬間が、あっという間に次の瞬間に移っていき、 何かが消えたと思う間もなく別の何かが生まれている・・・。 その速度感に、こちらが全然追いつけない。 だから観終わった後に、何も覚えていないという感じになってしまう。
笠井
ああ~。そうですか。
森山
『花粉革命』は、「京鹿子娘道成寺」をベースにして、 春秋座では長唄の生演奏付きという豪華な設えでの公演でしたよね。 花子の扮装で登場した笠井さんが、次第に狂気に取り憑かれていき、 カツラがバッと外れたり、その後衣裳替えなさったりする。 もちろんそういうひとつひとつは覚えているのですが、 動きの中で次々に起こったことは、 ものすごい速度で目の前を駆け去って、本当に全部忘れてしまう・・・。
笠井
それは良いことなのですかね、悪いことなのですかね。
森山
絶対良い事だと思います。 もちろん、どんなダンスにも速度はつきものだと思いますが。
笠井
いわゆる舞踏っていうと、 じーっとしているじゃないですか。普通。
森山
ああ、してますね。
笠井
じーっとして、1分前と2分前が全く変わらないというか。 あぁいうのはゆっくりですよね。
森山
ええ。例えば山海塾の舞台はすごいけれど、 笠井さんのような速度を感じたことはない…。
笠井
「夢」ってすごく長く見ているような気がしているけれど、 実は1秒だ、っていう人がいて、 多分、そうだと思うんですよ。 でもね、私は本当は「0秒」だと思うんですね。 「1秒」って言いたくなるのは、多分測定の方法がないだけで、 私は夢は「0秒」で見ていると思う。 ダンスの速度というのは、多分そういう感じだと思うんです。
森山
だとすると、「0秒」という時間は、振付可能なのでしょうか。
笠井
あのね、そこが一番、興味深いところなんだなあ。 「0秒の振付」というのが今回のテーマなんだなあ。
森山
なるほど。
笠井
別の視点でいえばね、 「ダンスの時間性」と「日常の時間性」が違うのは当然だけど、 演劇では「三一致の法則」みたいに、 長いストーリーでも、一日の出来事に短縮してやりますね。
森山
はい。
笠井
で、舞台と日常の「時間性」の違いは、ダンスの場合は、 私が捉えるところでは、もっと違う質なんですよね。 言葉が入らない舞台上の時間の流れと、日常の流れの違いは ある意味でいうと、「夢」を見ている0秒って、 日常生活で「今、何時ですか?」と聞いて 「3時半ですよ」とか、 「あれから1時間経ちました」とか、 そういう時間くらい違う。 その舞台上とダンサーの身体の違いを振り付けたいと。 今回の作品は大体、6人の女性ダンサーが出演しますが、 それぞれ平均20分なんです。0秒を20分にするということが 1つのテーマなんですね。 よく、ほら、「あなたと彼女はどういう関係ですか?」と聞くと、 「恋人関係です」とか「友達関係です」とかって言うでしょ?  今回ね、6人を振りつけていて発見したことがあるんです。 リアルにね、これは「踊り」の問題じゃなくて 「人間関係」の問題なんです。 「あなたとは振付関係ですよね」って。
森山
(笑)
笠井
悪い意味で言えば肉体関係なんです。 肉体関係といえばセクシャルな意味でしょ?
森山
ええ。
笠井
そういう意味とはまた違うのですが、 「振付関係」になれるということは、 私にとっては特殊な関係なんです。 誰でもなれるものではない。 たとえば全ての女性と恋人関係になれないのと一緒で、 私が「振付関係」を持てるということは、 ごくごく一つの縁があると。
森山
なるほど。
笠井
そういうところにある関係性というのは、 舞台の問題じゃないんです。 ある人と恋人関係になって、一緒に舞台をやろうね、 というのではない。 恋人関係というのは舞台と全く別の次元であって、 で、一緒にやってみようか、と、結果として成り立つもの。
森山
はい。
笠井
そういう感じなんですよ。 つまり舞台のために出会ったのではなくて、 この人と「振付関係」になりたいな…という。
森山
それが最初にあったわけですか。
笠井
あったんです。
森山
面白いですね。
笠井
これは舞台を前提としていないんです。
        
森山
随分、長いこと、今回出演されるダンサーには、 そういう思いがおありになったんですか?
笠井
ええ。ですからね、私の勝手な、 あの人と「振付関係」になりたいな、という憧れがあったんですね。 じゃあ、どういう人と私は「振付関係」になりたいかというと、 まず寺田みさこさん。
森山
笠井さんの作品は、初めてですよね?
笠井
ええ。初めてです。知らないんですね、寺田さんのこと。 ただ、山田せつ子さんの舞台に出ているのを 2回、観ているだけなんです。 これはすごいという何かを感じたのはね、 今回のチラシに彼女のことを 「クラシカルな陶器的身体に、無限の舞踏的カオスを呼吸している」 って書いたのですが、まさにそういう感じなんです。身体が。 「陶器的身体」という言い方ができる人は沢山いると思うんですが、 「舞踏的カオス」と一体になっているのが魅力なんですね。 寺田さんとはね、「振付関係」になれればと思っていたんです。 つまり、そういう意味でいうと、 この6人と一緒に舞台を作りたい、というのは、 後から出てくる問題なんです。 何かそういう一つの関係として、この世に生まれてきた時に、 関わりを持てる人って極々少ないですよね。 そういう人と一つの関わりを持ちたい、と。 正直言うと、『今晩は荒れ模様』という舞台があるから 稽古しましょう、という感じは、今もってないんです。 「あなたと一緒に、振付関係の時間を持ちたい」 ってことだけでやっているんです。 だからね、質は違うんですけれど 共同作業とかそういうものじゃなくて、 ようするに人間関係だけなんです。 これをどういう形で舞台に持っていくかってことについては、 今もって私の中にはない。 ですから結局、やっていることは振付じゃない。 ただ関係性を深めたいだけ。 人間関係の深まりというのは時間性を越えてしまう。 たとえば、一緒にいる時間が5時間でも10分ぐらいにしか 感じられないくらい濃密であるとかね。 そういう流れの中で人間関係を「0秒」に持っていきたい ということが、まずある。 そして、もう一方に、振付という一般的なものがある・・・。

第2話

わたしの「振付関係」の原点は・・・

森山
振付といえば、国際交流基金のサイトで 石井達朗さんがインタビューされた記事を 読ませていただいたのですが、たしかその中で笠井さんは、 「ダンサーとしての原点」が大野一雄さんとの出会いであって、 「振付家としての原点」は土方巽さんとの出会いにある、 という意味のことをおっしゃっていますね。 だとすると、『バラ色ダンス』が1965年ですから、 ちょうど今年で50年目。つまり今年は、 「振付家・笠井叡」の50周年ということになるわけですが。
バラ色ダンス
1965年 土方巽の60年代初期の代表作であり、歴史的とされる作品。
出演:土方巽、大野一雄、大野慶人、笠井叡、石井満隆
笠井
ああ、ほんとうだ、そういうことになりますね。 私はその翌年の66年にデビューリサイタルをやったんですね。 ちょうど50年か・・・。
森山
そのインタビューの中で、 土方さんが振付の原点であるというのは、 どういう意味かというのを説明なさっているのですが、 その説明が、まさに今、お話くださったような 「1対1の関係」――2人の関係の中で何が生まれるか というお話しなんですね。 あらかじめ何かを振り付けるのではなく、 何も考えずにまずパーッと動いて、その中で関係性を探る、 というようなことをおっしゃっている。 振付の原点が土方さんにあるというのは、 やはり土方さんにもそういう部分があったということでしょうか。
笠井
今ね、森山さんから言われて、もう一回、回想してみたんだけれど、 そしたらね、土方さんとは、 ひょっとしたらダンスを前提にするのではなくて 「笠井君、君と振付関係でいこうや」 みたいな瞬間があったのかもしれない。 そういうものが、ひょっとして私の中に入っているのかな、と。 一般的に言って、私には大野一雄という 一つの即興を手ほどきしてくれた人がいて、 それから土方巽がいる ――土方さんとは師弟関係はないけれど、 私を舞台で使ってくれて色々な作品を振り付けてくれた。 そういう意味では、私の中では対立した形で 2人が存在していると思うのですが・・・。 そうなんだよなあ…土方さんの舞台の作り方は、 「舞台を作ろう」って感じじゃないんですよ。 「出会える」、「あなたと出会った」。それだけなんですよ。 この人間の出会いをどこへ持っていくのか。 飲むか、ボーリングやるか、じゃあダンスでいくか、と。 でも、ややダンスは目的にはしない人だったね。 その代わり人間の出会いは、ものすごく大切にした。
「病める舞姫」写真:神山貞次郎
森山
そうですか。
笠井
だから舞台のために出会っている、 そういう感じじゃないんですよ。今、言われて思い出しました。 ひょっとして、私が今言った「振付関係」の原点みたいなのは、 ある意味では土方さんにあったかもしれない。 ただ出会った時だと恋人になるのか、 夫婦になるのかわかりませんが、 それが「振付関係」というところに行った時に―――――、 そうですねえ、今、踊りといった場合、 ヒップホップとかで若い人たちがやったりする即興というのは、 自分で自由にやることが中心ですよね。 今の人間って、「自分」と「自分の身体」というものとが 同一だと思っている人は、まずいないと思うんですよ。 「身体は私だ」なんて言える人は、おそらくいないと思うんです。 「自分という人間」と、「身体」というものとは、 すごく離れちゃっていて、だから、たとえば ここへこうするのは(腕を動かして) ――――――いったい誰がやっているのか、 と常に確かめなくてはいけない。 本当にここへ持っていこうとしている肢体が私なのだろうか、 あるいは別の人間が憑依して、こうさせているのだろうか、と。 その辺の、自分の身体への不信感とか信頼の揺れって、 すごく大きいでしょ? 
 
私、パパタラフマラの小池(博史)さんが、 舞台の後でトークやりたいっていうからやったんですが、 小池さんが最初、こう言ったんです。 「演劇もダンスも身体を使っていることについては共通なので」って、 そこから言葉が始まったんですね。 でもね、それはあたりまえですよ。 大事なことは、身体を使っているから共通なのではなくて、 どういう私と身体の関係性を取り結びたいのか、 ということなんですよ。 そういう点から、「演劇」と「ダンス」を考えると、 これはもう、想像を絶する違いを私は感じるのです。
森山
想像を絶する違い…。
笠井
もちろん、言葉を使うという問題だけではなくて、 一つの動作の中で役者が動くのと、 ダンスでその動きを持っていく時の、 この「身体」と「自分」の取り結び方の問題です。 それを思う時、ダンサーは、時として、 演劇の人の「身体」と「自分」の結びつき方の 完璧な習慣性を見て、絶望する時があるんです。 その絶望は演劇に絶望しているのではなくて、 習慣性に対してなんですね。 たとえば「物を掴む」という動作ひとつをとってみても、 こうやれば「掴む」ことになるのだ、ということが 演劇の中では、しばしば当然のこととして生じてしまう。 そのことに対して、ダンサーは絶望しているのであって、 もう一度、これを掴もうとしている主体は誰なのか、ということです。 土方さんはこういうことをずうっとやっていた。 彼は障害者の動きを例にとるのですが、 その人が何か物を掴もうとする時に、 直接、つかもうとする物の方へ行かないで、 一度、手がこっちに行ってから掴もうとする。 でも結局は、そこまで至らない。 この余白の部分だけでダンスを作らなければ、 20世紀後半のダンスは絶対に始まらない、と土方さんは言っていた。 何千年というダンスの歴史で、障害者の動きを コレオグラフィーの中に入れたのは土方巽だけですよ。 これは確かですよね。 その時に何が起きたかというと、 今までに美的な動きとは何であるかとか、 ダンス的な動きはこうであるかとかいった、 そういう何千年かのコレオグラフィーに対する評価が 全部変わってしまった。 「では舞踊家は何のために身体を使うのか」 「何に向けてトレーニングするのか」 「なんのために舞台の上で美しいことをやるのか」 となったわけです。 ・・・その時に、それまでの舞踊の歴史の中である種の変質が、 当然起きてきますよね。
森山
ええ。
笠井
それが多分、今の時代にものすごく薄められた形で、 何でもアリの舞台になってしまったってこともありますけれどね。 ・・・繰り返しになりますが、土方さんの振付の根源にあるのは 「踊り」じゃない、ということです。 今の人たちの即興というのは、 身体と自分の関係性を取り戻すのが即興。 今の「自分の身体」と「身体にいる自分」との関係を 取り結んでいる限り、 「自分」と「身体」の関係性ができないわけ。 それが私の感じでは、今でも私が即興をやらせている 根源なのではないかな、と思うんです。

第3話

イマジネーションは、客観的である・・・

森山
即興といえば、今回の出演者のひとりである 山田せつ子さんが、この大学で専任教員として教えられていた時に、 笠井さんに特別授業に来ていただいたことがありましたね。 studio21で3時間ぐらいワークショップをやっていただいた。 僕はあれが非常に衝撃的で、非常に面白かったのですが。 僕の記憶が間違っていなければ、 あの時、笠井さんは学生が40人ぐらいバーっと 即興で踊っている中で、「主観は客観である!」と 繰り返し叫んでいらっしゃったと思うんですね。 とにかくそれがものすごく印象的でした。 普通に考えると、「主観は客観である」というのは、 言葉の上では矛盾しているし、「えっ、何それ?」って 感じになるはずですが、 笠井さんが踊りながらその言葉を発していると、 独特の明晰さが感じられて、 完璧に納得させられてしまったんですね。 「主観が客観である」というのは、 書き言葉のレベルであれば 哲学的な回路を通さないと分からないような命題なのに、 笠井さんのダンスだと成り立ってしまうのは、 いったいなぜだろう、と。 そういえば、さっきあげた石井さんのインタビューのなかでも、 「イマジネーションは、できるだけ客観的なものでありたい」 ということをおっしゃっているのが印象的だったのですが
studio21
春秋座と共に京都劇術劇場内にある劇場。現代演劇やダンス、パフォーマンスなど、さまざまな舞台芸術のための実験的演出が可能な空間。
笠井
はい。ええ。
森山
そこで言われていたのは、大野一雄さんの場合は、 自分が採った花が自分のお母さんだと思うところまで イメージを持っていけ、と言う。 でも、それはとても極私的なものであって、 イメージはもっと客観的なものでありうるのであるのではないかと、 笠井さんは大野さんにおっしゃった、と。 それを読んで、「主観は客観である」と ワークショップでおっしゃっていたことが、 あらためて繋がったような気がしたんです。
笠井
そうですか。
森山
他方、土方さんだったら「モノ」って言うんじゃないか、と。 そこを、「モノ」と言わずに、 あくまでも「客観」という言葉で表現なさるところが、 笠井さんの特徴的な部分じゃないかなと思ったんです。 昨日、観ていた『花粉革命』でも、非常にそのことを思いました。 どういうことなのか、自分でもまだうまく 言葉にならないのですけれども・・・。 一見、狂気に見える世界でありながら、 ある種、完璧に明晰であるというか・・・。 笠井さんのダンスを観ていると、頭の中がこう、 クリアになっていくというか掃除されていく感じ、 どんどん澄んでいく感じ。 つまり、あまり情念のダンスじゃないってことですよね。
笠井
ああ。
森山
もしかするとそこが、最初に申し上げた、 他では観たことない、という印象に繋がっているのかもしれません。 シンポジウムの第一部で、当時の山村若さんが、 ものすごく笠井さんのことを羨ましがっている。 「白拍子花子」の衣装で踊り狂うところで、 リノリウムの上で、あんな重い着物をあんなスピードで動いていて、 完璧に裾をさばけるなんて、ありえない」、と。 完璧にさばけるというのは、 もちろん舞台的な強さというのもあると思いますが、 やっぱり何か明晰なもの――身体における明晰さと いうことがあるのではないかと思うんです。 その後、着物を脱いで、身体のラインが晒されたとき、 ある意味では、ゆがんだフォルムであったりする。 けれど、それがまた次々に動いていく動き方というのがすごい。 あるいはそれこそが「0秒」的な世界なのかもしれないけれど、 全く目を離すスキがない。 それから、いま思い出しましたけど、 笠井さんはよく舞台上で言葉を発しますよね。 『花粉革命』でも、ずいぶんお客さんに話しかけたり、 客席にダイブしたりなさっている。 それでちょっと気になったのですが、 まさに踊っている瞬間に、笠井さんには観客が、 どういう風に見えているものなのでしょうか?
「花粉革命」写真:清水俊洋
笠井
舞台って、観客がいて成り立つものであって、 踊っているから舞台なのではなくて、 観客が主体だと思っているんです。 観客が主体であってダンサーに主体がないっていうことは、 これは事実ですから。 稽古場で、たった一人で踊っている時の主体は 自分だと言っていいと思いますし、あるいは、強いて言えば、 稽古場という建物が主体であるといってもいいと思うのですが、 それが劇場となると、建物ではなくてそこにいる観客が主体です。 そういう時、自分が踊っていることは確かなんだけれど、 ただものじゃないっていう。観客がいるっていうのは。
森山
はい。
笠井
本当はね、観客っていうのは、 マスじゃなくて、一人一人なんですよね。 私が動いている時に、目の前に観客がいる。 マスの人たちが、何を私に動けといっているのか、そ れを聞きとろうとしても、聞き取れたようでいてよく聞き取れない。 そうすると、ついつい話しかけに行くというか、 その人はどうなのか、って気になった時は、舞台を降りて行く。 その人を名指しでしゃべるとかね。
森山
ああ、気になったから降りていく、という感じですか。
笠井
それもあるよね。客席に降りて確かめたい。
森山
ああ、そうなんですか。
笠井
こうしようっていうのは、見え方としてはあるますが、 ダンスの主体は観客。観客が私の身体を動かしている。 その主体一人一人を知りたいというのが、かなりあります。
森山
いわゆる「客いじり」って、演劇なんかにもよくありますね。
笠井
ああ、客いじりね。はい。
森山
でも、笠井さんの場合は、 いわゆる「客いじり」とは何か違う感じがする。 笠井さんが観客に何か話しかけている時、 「その人を見ている」感じがするんですよ。 いわゆる「客いじり」って、 観客がマスであることを前提とした上で、 マスのなかのひとりとしての誰かに ちょっかい出している感じになってくる。 ワン・オブ・ゼムとして扱っているんですね。 「その人」自身に話しかけているのではなくて。
笠井
ああ、わりとそうかもしれませんね。
森山
それから、今のこととも関連するかもしれないんですけれども、 いつも笠井さんの場合、観客に対してだけでなくても、 言葉を発する時、その言葉がものすごく きれいに聞こえてくるというのが、とても印象的なんです。 カオスの中で、どんなに踊り乱れていても、 笠井さんの声ははっきりこちらに聞こえてくるんですね。

第4話

ダンスは戦争を、根源的なところで引き受けなければならない・・・

森山
ところで、今回の作品の稽古でも、1対1が主体なんですね。
笠井
そうですね。1対1なんです。
森山
一言で稽古といっても、数か月の期間がありますよね。 本番まで、まだ少し時間がありますが、 さきほど言われたような 「振付関係」にあるダンサーとの稽古の中で、 あ、何か新しいものが出てきたな、っていうものは、 普通、どういうタイミングで生まれてくるのでしょうか? 
笠井
「振付関係」は「関係」だから、 本当は「深めたい」というのはあるんです。 深めてどうなるの、というと、 たとえば「地球の中心部を見たい」というように、 誰もまだ見たことがないものを見たい、ということです。 「身体の中心部」に一体何が存在するのか。 それを深める作業があるんですが、 やはりマンネリになることもあるし、波はあるんですね。 今日は深められた、今日は深められなかった、 ということの繰り返しです。 それと、今回の作品の場合は、 具体的に稽古に入ったのが去年の5月からですから、 稽古期間としては割と長いですね。 でも「出会い」である以上、時間がかかるんです。 どういう関わりの中で作業をしていくか、というものなので、 1カ月稽古したら本番みたいなことというのは、 こういう作品ではやっぱり無理なんです。 テクニカルな問題だけでは片がつかないから、 はい、ここはこうやって、ここはああやって・・・ という風にはいかないですね。 と、同時に、日々、歴史が変わっていく。
森山
振付家とダンサーの関係の・・・?
笠井
いえ、たとえば、IS(「イスラム国」)の問題とか。
森山
ああ、稽古場の外側の歴史の方ですね。
笠井
日本でも色々な事件が起きたりする。 もう、日々起きる事柄が、 稽古場の中の関係性を取り囲んでいるでしょ。 そうすると単なる個人的な「振付関係」だけで済まないことが、 ものすごくあるんですよね。 その部分はお互いに生きているわけですから無視できない。 たとえ直接話し合うことがなくても、感じあっているわけです。 そうするとね、確実に、ある出来事の日は そのダンサーの身体は変わるんです。
森山
なるほど。
笠井
ああ、身体はこの前の身体じゃないって。 振付の場合、もちろん即興の場合にもそうですが、あるわけね。 たとえば戦争でいうと、第二次世界大戦のような、 総力戦の部分からはじまって、 もっと小さな市街戦のような都市の中での戦争にまで至る。 市街戦をもっとコンパクトにすると、 一つの部屋の中に戦争を押し込めるような所へ行く。 そうすると、えらく演劇的な行動になってきますよね。
森山
ええ。はい。
笠井
ある意味で、演劇というのは、市街戦をもっと部屋の中にいれて、 そして、歴史を一個の部屋の中に閉じ込めるようなことかもしれない。 たとえば、映画でいうと、確実にドキュメンタリー作品でありながら、 それを観た観客は作られたものとして観てしまう。 ドキュメンタリーではなく、 これは確実にシナリオに基づいた 一個の作品なんだな、っていうふうに。 そういうドキュメンタリー作家っているじゃないですか。
森山
ええ。
笠井
そういうドキュメンタリー作家の映画を観ると、 現実と作られたものの境目は、まず分かんなくなっちゃう。 たとえば、市街戦を一個の部屋の中に入れる演劇というのは、 具体的に敵味方や武器を持って来て、 そこでドキュメンタリー風に戦争を一個の部屋の中に 閉じ込めていく、という作業でしょう。 ダンスの場合は、一つの歴史で生じている事柄を 一人の身体の中に入れて、 それを一個の「振付関係」の中に入れていく。 その場合、演劇で鉄砲を撃つ時には、たぶん本物の鉄砲は撃たない。 撃ってしまって、実際に人を殺してしまったら元も子もないから。 でも、ダンスの場合には、確実にその違いを見せないで済むんです。
森山
どういうことですか?
笠井
つまり、最後まで欺けるというのか・・・
森山
あ、そうか。
笠井
たとえば、ドキュメンタリー映画であってもね、 ものによっては、ドキュメンタリーなのに、 観た観客が全員ドキュメンタリーではない作品として 受け取ってしまうようなものもある、 つまり、欺きますよね。欺かれた観客はどうしたのか、 欺いた作家が才能があったのか、ということになりますが、 ダンスの場合には、確実に欺けるんです。 なぜなら演劇と違って、ダンサーが舞台でやっていることは、 全部本当のことだからです。
森山
そうですね。
笠井
ただ、それが振付になった場合、 振り付けているから嘘だとか、 振り付けていないから本当だとか、 そういうことじゃなくてね。 振付であっても、それを振り付けることで、 もっと本当になってしまうという、そういう部分が、 身体の中にはあるわけですよ。 その場合、たとえばイラクや中東全体で起こっている戦争ですね。 たとえば鉄砲を撃った時、 引き金を指で引く時の瞬間の力の入れ方とか、 銃を向ける時とか、 人を殺す時の人間の動作の中にある動きを、 そこにいる兵士たちは一体どう考えているのだろうと。 つまり、彼ら自身の身体運動を、ですね。
 
たとえば、IS(「イスラム国」)の兵士たちが、同じ白い服を着て、 同じ方向に100人並んで歩いている映像が流れたりしますが、 その兵士たちを、マスとして見るのではなく、 一個の兵隊の立ち方、身体の動かし方、 それから死に方を――観察するわけにはいかないので、 もっぱら一つの映像を通して、 人間が死ぬ時の動作はどこからくるのか、イメージするしかない。
 
その時に、一番私が共通して感じるのは、 全員ISに騙されてきたのではなく、 いわば存在自体が騙されている。 生まれ落ちた時から騙されてしまっていて、 自分が騙されていたことにさえ気が付かない。 簡単に言えば、自分の自我無しで、 自分の自我で出歩くことは断念してしまって、 風が吹いた時にからだが揺れるように動いてしまう。 まさにそういう延長で、 風が吹いたようにピストルの引き金を引いてしまった。 その身体って、なんていったらいいのか、ダンスの対極ですよね。
森山
うーん。
笠井
そういう身体の使い方は、ね。そういう時代に、 今、我々は生きている、ダンサーは。 その時の身体の動作って一体、 どこに持っていったらいいのかというと、 結局、全くの騙されて生まれて落ちた人の上に ダンサーは乗るわけにはいかない。 そうじゃなくて、生まれ落ちた嘘の身体の底辺に、 まず自分の身体を持っていって、 彼らの身体をやっぱり支えなくてはいけない。 ダンスの先に戦争があるとか、ダンスの先に武道があるとか、 人を殺すとか殺さないとかの前に、 もっとダンスの身体というのは深いところにいなくてはならない。 ISの兵士たちの身体は全てバーチャルの身体だと 簡単に言いきることはできませんが 風が吹けばピストルを発射してしまう、 そういう自動的な身体であったとしても それを起こさせる身体の「根源」まで ダンサーは降りていかなくてはいけない。 これはダンサーの義務なんですよ。 彼らのやっていることをネタに芝居を書いてはいけないです。 あるいは彼らがやっていることを ドキュメンタリーにして売ってもいけないです。 ここなんですよ、一番難しいのは・・・。 ダンサーはね、ちゃんと引き受けなくてはいけない。
森山
引き受ける・・・。
笠井
これは何も英雄主義とかそういう問題ではなくて ダンスをするということは、やっぱり、今の時代は 「戦争」を引き受けなくてはいけない。 戦争を引き受けないでダンスをするわけにはいかない。 ただ戦争の引き受け方が、動作なんです。 人間の動作の根源・・・。 それが「振付関係」の中に活かされるというか、 その上に立って、ダンスが、振付が成り立つということなんだね。 そんなこと、できやしないんだけれど、 ただ、言葉で言うのと言わないのとでは 違うってくらいなんですけれどね・・・。
森山
そういうことを、笠井さんが志すようになったきっかけは、 何だったのでしょうか。 こういうことを最初にやろうと思うようになった動機とか。
笠井
それはね、私には分からない。こうしてダンスをやっている間、 いまだにね、「なぜダンスをやらなくてはいけないのか」 「自分はダンサーなのか」とか、 その問いかけは日々やってくる。 何をやっているのかなあ、っていつも思うんです。 たとえば、三島由紀夫は、法治国家あるいは国民国家で、 法体系が出来ている時に、 もし一人の人間を死刑に処するのであれば、 絶対、一つの条件があって「公開処刑にしろ」ということを、 ずいぶん前から言っていたんです。 暗い、陰湿な誰も知らないようなところでやるのではなく、 太陽が照った真昼に、ルイ16世やマリー・アントワネットが 処刑されたように完全に公開すべきだと。 それは見せしめというのではなく、 法治国家であって死刑を許すのであれば、もっと堂々と・・・
森山
法の行為そのものを明るみに出せ、ということですね。
笠井
結局、三島さんにとっては、 人の前で死ぬということは表現なんです。
森山
ええ
笠井
最高の表現なんです、彼にとって。 でも、それができなかった。切腹したということと それが関係あるかどうかは分かりませんけれどね。 でも、それじゃあ、もしも死刑が公開されるとすれば、 ダンサーは何をやりますか、その時代に。 演劇家は、何をやるのか。 つまり一つの身体の具体的な、 ある一つの民族の中における生き方の一つとして、 死刑を許すのであれば公開にする。 で、公開にした時に、それ以上の表現はたぶん無いわけです。 ですから、たとえば江戸時代、死刑をする時にみんな見に来る。 それは一つのパフォーマンスとして、 ある意味で――無論、ある意味で、ですよ、これ以上ないものを見る。 とすると、そういう時代にあった演劇と、 そうじゃない演劇というのは、これは確実に違うじゃないですか。 私、思うんですけれどね、暗黒舞踏だとか何だとか、怪しげなね、 それこそ、それまでの歴史の中ではやっていないような 人間の暗い部分に光を当てるようなダンス。 あれは、あまりに日本が平和になりすぎたから存在しえたのであって、 もしもあの時代に死刑が公開されていたならば たぶん暗黒舞踏は生まれなかった。 ものすごく平和になりすぎてしまったために、 民主主義の中において、本当の人間の血とは何か、とか、 生命とは何か、ということを、 表現として見せることはできなくなってしまっていたわけですよ。 それで結局、暗黒舞踏みたいなものがね・・・
森山
ある意味では、必然的に出てきた、と。
笠井
ええ、ものすごく平和だから出てきたんですよ。 今のアラブなんかで暗黒舞踏なんか、絶対に流行らない。 日々あれだけの殺戮があるわけですから、演劇も生まれない。 でも、本当はあの戦場で生まれる新しい芝居なり、 あの戦場でなければ生まれないダンスというものが 無ければならないと思うし、 あの戦場で成り立つダンスというものは何だろうか、 あのイスラム国で成り立つダンスは何なのか、やはり考えますね。 それで許されるのなら、兵士になる前にダンサーになれ。 ダンサーになって身体のことを知った上で 鉄砲の引き金を引いてほしいと思いますよね。 こんなに興奮することじゃないのですが、 今の時代ですとね、そういう時代ですよね。
森山
そういえば、私も最近考えるのですが、 ここ芸大じゃないですか。 だから、もしかすると芸大生の中からISに行きたいという人が出ても、 これは可能性としておかしくないと思うんですよね。
笠井
そうですよね。
森山
だから、こないだの北大生が行こうとした事件が報道された時、 真っ先に思ったのは、もしもこの大学から ISに行きたいというやつがでてきたら、 私は何と言うべきか、ってことだったんですね。
笠井
笠井のところへ行ってダンスやって来いって(笑)。 それから行けって(笑)。
森山
分かりました(笑)。 いや、まさに私も思ったのは、芸術ってね、 たとえばそこでISに行かせちゃったら、 芸大として恥ずかしいと言わなくてはいけないんだろうなあ、と。 つまりISに行かなくても芸術があるじゃないかと。 それが芸術という場所なんじゃないか、とあらためて思ったんですね。 今の笠井さんのお話をお聞きして、ふと思い出しました。

第5話

戦争を超えることができるのは、女性の身体・・・

笠井
ねえ、今日のインタビューってこういうことでよかったの?(笑)
森山
何だか憂国論みたいになっちゃいましたけれど(笑)
笠井
でも、いままで話したことは、全体としては 『今晩は荒れ模様』なんだと言っていいと思うんです。
森山
絶対にそうなんでしょうね。 「ダンスを信じる」ということが、 やっぱり非常に大事なんだということを、あらためて感じました。 そういう根源的な動機からつくられようとしているのが、 今度の作品に他ならない、ということでしょう。 ますます楽しみになってきます。 「何かを信じる前に、風に吹かれるようについ何かをやってしまう」 という時代に対するメッセージのようなものとしてね。
笠井
私が舞台に初めて立ったのが1963年―― 言ってみれば50年、時代を通して人間の身体を見ていると、 一番思うのは、今の人達の身体と 10年前の人、20年前の人の身体とは、 とにかくものすごく違うんですね。 でもそれはあたりまえで、 江戸時代のお侍さんの身体と昭和の身体は違うでしょ。 50年というと、江戸が終わって明治が45年ですから、 江戸末期の身体と大正期の身体との違いと同じ時間差ですもんね。 そんなの、同じであるわけがないんですよ。 私の身体からみるとね、私はまだ江戸の身体を持っていますが、 今の若い人は江戸の身体を知らない。 知らないから良いんですけれど、 でも私は身体の違いを知っているんですね。 それを知るとダンスは、そんじょそこらでは作れなくなる。 どこから作かというと、 この身体の違いを埋めなくてはいけないわけです。 若い人同士で作ると、その違いを埋める必要がない。 今の身体で動けるわけです。 ですが、今度出演する人たちも、 みんなそれぞれ、埋めなくてはいけない。 これは愛を持って埋めなくてはいけない部分があるわけです。
森山
「振り付け関係」として。
笠井
ええ。この部分を越えられるのは愛情なんですよね。 自分でいうのは何ですが。
森山
一人一人のダンサーと、それぞれの「振付関係」について、 もう少しいかがですか?
笠井
チラシに書いた全員のキャッチコピーは3分で書いたんです。 これが一番、私にとって 一人一人に対する向かい方の基本といっていと思います。
森山
森下真樹さんとも初めてですよね。 どういうきっかけなんですか?
笠井
そんなに舞台を見ているわけではないのですが、 上村さんと2年ぐらい前にやったデュエット作品を観て、 この2人はデュエットの関係での振り付けがいいなと直感しまして。 今回、デュエットなのはこの2人だけです。あとはソロです。 あと、もうひとつ言えるのは、 この前に男性だけの作品がありましてね、
森山
あ、麿赤児さん、大駱駝艦とされた作品ですか? (『ハヤサスラヒメ』、2012年、世田谷パブリックシアター)
笠井
そうです。
森山
石井達朗さんとのインタビューが、 ちょうどその直後に行われたもので、 今度は女性だけと作ってみたいとお話になっていますよね。
笠井
私には、ダンサーを抽象的にとらえるという発想が割となくて、 女性ダンサーなのか男性ダンサーなのか、 けっこうそこにはこだわるんですよね。 同じ振り付けをするにしても、 男性に対してと女性に対して振り付けるのでは、 全然違うところがあるんですよ。 そういう意味でいうと、やはり私は男性なので、 女性の身体というのは、 それだけで私にとってはテーマになってしまうんです。 女性の身体で何かを表現してくれというのは、 私にはできないですから。 だから、女性の身体を出してもらえばいいというところに、 ある意味ではとどまっているんですよね。 これっておかしいでしょ?
    
森山
うーん。
笠井
普通、おかしいと思いますよ(笑)。 普通、振付家であるならば、 こういうテーマで女性に踊ってくださいと言いますよ。 テーマを与えますよね。 これは、そういう意味ではテーマがなくて、女 性の身体がテーマなんです。 女性の身体のテーマの出し方が、「振付関係」という中で、 私が男性で6人が女性であるという・・・。 確実にそこはジェンダーの関係なんですよ。 それなしには成り立たないんですね。
 
ただ「振付関係」というのはセクシャルティという意味ではなくて、 男性の持つ身体(しんたい)と、 女性の持つ身体(しんたい)は全然違う。 その身体(しんたい)の違いを知らないで、 何かのテーマを振り付けができますか? ということであって、 私にはまだできないんです。 どうしてもそこに留まってするほかない。 それは先ほどの戦争を支える身体(しんたい)と 同じというところであって、 そこまでいかないと身体(しんたい)の根源から 何かを表現することができないです。 たぶん、そこのところ、クラシックバレエは何もしてないでしょ? 何のテーマも踊っていない。 ただ女性の身体(しんたい)の有り様だけを いくつかのパに分けてやっているだけで、 そこしかやっていないと思うんです。 男性はそれを支えているだけ。 ある意味で、 クラシックダンサーがやっているものとは違いますけれど、 女性の持つ本質的な力が出るならば、 戦争にこだわりますけれど、 兵士を越える力を女性は持っていると思います。 なぜならば第一次世界大戦も第二次世界大戦も、 みんな男性が仕掛けたのであって、女性は仕掛けていないんです。 戦争はやはり男ですよね。なぜ、男が戦争をするのか。 それは女性の本質を知らないからですよ。私の言い方をすれば。
森山
うーん。面白いですね。
笠井
ですから具体的に九条の問題とか全部、根本的に違うのは、 いまだに女性を理解しないまま男性が突っ走っている。 基本的に戦争を越える力は女性にしかないと思うんです。 女性を真に理解した時に、戦争を越える力を得ると思います。 その部分を理解しないで積極的平和主義というのは、 私は成り立たないと思うんです。
森山
ありがとうございました。