京都芸術劇場15周年 さらなる実験と冒険へ

春秋座ができるまで春秋座ができてから 
京都芸術劇場は今年15周年を迎えます。
これを機に、2001年の京都芸術劇場立ち上げ時より、
企画運営室長として劇場の成長を見守ってきた
橘市郎(現・春秋座顧問プロデューサー)に
改めて劇場ができるまでのあらましを伺い
未来に向け、さらなる「冒険と実験」へ向けて
進んでいきたいと思います。

──

東京にいらした橘さんが企画運営室長として
京都に来られることになったのは、
春秋座の初代芸術監督で
三代目猿之助(現・猿翁ここでは猿之助とする)さんの
ご指名だったとか。

私と猿之助さんとのご縁は、私が東宝辞めて
小さな制作会社をやっていた1988年。
当時、私は48歳で、ミュージカル『イダマンテ』を
私が企画・プロデュースし
猿之助さんが演出したのが最初でした。

それ以来、仕事上でのご縁はなかったのですが、
当時のことを覚えていてくださったんですね。
京都造形芸術大学に劇場を作るとなった時、
12年ぶりに連絡をくださって
「企画運営室長をやってくれないか」と
お声をかけていただいたんです。
当時、私は制作会社をやっていたこともあって
「ちょっと考えさせてほしい」と答えましたら、
「ひとまず、一度、大学を見に来てくれ」とおっしゃる。
それで、京都まで見に行くことにしました。

大学に劇場を建てるというのは、
猿之助さんと前理事長(徳山詳直)の長年の夢でした。
というのも大学開校時に行われていた
猿之助さん率いる澤瀉一門の
歌舞伎集中授業は大変な人気で、
最終日には衣裳と鬘を付けた発表会が行われていたんですね。

歌舞伎集中講義の発表会の様子

「これを劇場でやったら学生が喜ぶだろうし、
大学の中に劇場があるというのは素晴らしいだろう。
学生に本物を観せたい」
というのがお二人の夢で、猿之助さんと前理事長は、
もう、相思相愛だったんですね。
そういうお話しを聞きながら
松麟館の上から京都の町並みを見た時、
「京都へ来よう!」と決心したしました。

松鱗館の上から見る京都の町並み

京都に来たのは、劇場建設準備段階の2000年3月。
猿之助さんは翌4月に芸術監督に就任されましたが、
劇場を作る段階はもとより、劇場が出来た後も
ずっと劇場についているわけにいきません。
よく私に対して「代貸」という言葉を使われましたが、つまり
「自分がやりたいことを代行して、ちゃんとまとめてくれ」
ということですね。それが私の役目でした。

当時、まだ舞台事務所は無かったので
大学の経理課や総務課があった
望天館という建物の秘書課ブースに
私の席を作ってもらいました。
そして毎週一回、すぐ近所にある
ア・ファクトリーという建設事務所に
照明、音響などの各スタッフと集まり、
設計図を観ながら各専門家の立場から
「ああしてくれ」「こうしてくれ」と
要望を出したり、話し合ったりしました。
つまり設計に関して先方はプロですが、
劇場となると各分野の専門家の意見を聞かないと
分からない部分が多いですからね。
例えば、図面上ではスタッフが仕事をする
舞台事務所はなかったですし、
照明用のキャットウォークがないとか、
音響もスピーカーを置く場所をどこにするのかとか、
搬入口が低いから高くしてくれとか、
配線が下では動線が危ないから上にしてくれとか、
そういった劇場としての機能や問題を
いろいろ解決していきました。

機能重視で、お客様を大切に

──

劇場を作るにあたって、
どのようなコンセプトがあったのですか?

劇場全体の大きなコンセプトとしては、
猿之助さんの「お客様を大事にする」という精神で
満ちていました。
例えば(旧)歌舞伎座は女性トイレの数が少なく
休憩時間が足りないという問題があったので
「歌舞伎をやるなら男性のトイレを少し狭くしてもいいから
女性のトイレを広くしてほしい」と
女性トイレを多く作りましたし、
「古い歌舞伎小屋は客席の前が狭くて窮屈だから
座席を広く取ってほしい」とか、

春秋座の座席は前が広く、ゆったりと取られている。

「座席の配置を千鳥(交互)にする」とか、
猿之助さんの方から色々提案されました。

他にも舞台裏は普通、公共ホールでは
楽屋スペースになるのですが、大は小を兼ねるからと
「フリースペースにしてほしい。
そうすれば大道具などの倉庫にもなるし、仮設楽屋にもなる。
いろいろな使い方がでる」
という斬新な提案もありました。
とはいえ私も長年の経験から
「主役の人用の個室の楽屋が必要じゃないですか?
他にもオペラを上演するなら楽団用に広い楽屋が必要ですし」
と申し上げましたら、
「劇場の楽屋はホテルじゃないんだから
最小限、化粧をする場所があればいい」
と、おっしゃるんですね。
そういうことで2階に20人用の化粧前のある楽屋、
3階に60人用の部屋を作りました。
もちろんお金の面で猿之助さんも妥協した部分は沢山あります。
「豪華なシャンデリアも絨毯もいらない。
その分、日頃、お客さんが不便に思っているところを
なるべく無くし、機能優先の劇場にしたい」
というコンセプトで進んでいきました。

理事長としても当初は
プロセニアムアーチ(舞台を額縁のように区切る構造物)に
天然木を使いたいとか色々と構想がありました。
でも猿之助さんが
「舞台は中身が勝負なので、個性が強いとダメなんですよ。
色々な舞台をやるのだからシンプルに大臣柱
(上手にある竹本の床の左側の柱と、
下手にある黒御簾の右側の柱)があるだけがいい」
と意見されましたし、他にも
「楽屋へのエレベーターはいいのかい?」
と、理事長がお聞きになられましたら、
「役者は足腰を鍛えなくてはいけないから
楽屋にエレベーターはいらない。
エレベーターを作るお金があるなら
舞台の機構にお金をかけてください」。
何度も「楽屋はホテルじゃないですから」
っておっしゃって。

とにかく喧々諤々やりました。
とはいえ猿之助さんは理事長を大尊敬しているし、
理事長もプロの言うことには引くところもあったから、
結局、最後はまとまりましたが、結構、色々とやりましたね。

学生も劇場作りに参加

──

芸術系の大学ということもあって、
学生も劇場作りに参加していますね。

工事経過の写真は、写真を教えておられた鈴鹿先生に相談したら
学生に声をかけてくれましたし、
緞帳に関しては理事長の
「せっかくうちには染織コースがあるのだから、学生が作れないかな」
という提案で、学生が作ることになりました。
でも教授も学生も緞帳なんか作ったことがないですからね。
そこで、伝統工芸士・中島鉄利さんの指導を受けて作りました。

作ったパーツを写真に撮り、並べたところ

緞帳のテーマは「自然」。
デザインを公募して一人の作品を選ぶのではなく、
学生みんなでデザインを描いて、
それをつなぎ合わせて一枚の緞帳にしました。

そして「ゆくゆく記念になるように緞帳制作に
関わった学生の名前を書いて、ロビーへ飾ってほしい」
と言ってくださって、今、その額がロビーに飾ってあります。

春秋座ロビーに飾られた緞帳の額

だんだん決まってくるに従い、理事長も
「橘くん、この劇場ができたら、誰もがやりたくなるよな」
と本当に嬉しそうでしたね。

劇場の三本柱と名前が決まる

──

橘さんが来られたのが200年3月ですから、
それから急ピッチで劇場ができていったんですね。

そうですね。そうやって、だんだん劇場が出来ていく中で
夏頃でしたでしょうか、
東京の歌舞伎座近くにあった東急ホテルに
猿之助さん、観世榮夫さん、太田省吾さんなど
10人がぐらいで集まって
劇場の名前を考えたり、杮落とし公演はどうするのか、
実際の運営はどうするのか、ということを
具体的に話し合っていきました。

春秋座という名前は、最終的には猿之助さんが付けました。
『史記』の「春秋に富む(意=若くて、将来が希望に満ちてい
ること)」から取って「春秋座」と名付けました。
実はこの名前には、さらに曰くがあって、
猿之助さんのお爺さん(初代猿翁)が
かつて春秋座という劇団を立ち上げて興行をしていたんです。
そのような縁のある名前でもあります。

劇場入り口に掛けられた扁額。
二代目芸術監督・四代目市川猿之助氏による揮毫の扁額

上演演目をどうするかについては
名前の前に「芸術劇場」と付いているので、
いわゆる娯楽だけの作品ではなく、
まずは「大学らしい」かを考えること。
運営コンセプトについて理事長は、
まず「学生の教育目的」であること、
それから研究者が沢山いるのだから、
「研究の場であること」、
そして、これは私が主張したのですが、
劇場はお客さまが入って交流がないと成立しない。
ですから「社会貢献の場」であること。
この三本柱を決め、
この劇場のテーマを「実験と冒険の場」とし
京都文芸復興の拠点となることを目指しました。

そうやって徐々に決まっていきましたが、
実際のところ、本当に開くのかなという
不安な気持ちもありました。
大体、翌5月の杮落し公演をどうするのか
ということが決まったのが9月頃でしたし、
オープンまで間もなくという時なのに、
行政との話合いに秘書課長と行政へ交渉によく行きました。
というのも大学の中の劇場なんて
国内で初めてのケースですから、
なかなか大変なことでした。

劇場自体も本来なら3月には出来上がっている予定でした。
というのも理事長は卒業式を春秋座でやりたかったんですが
3月の時点でようやく箱ができて客席が入ったぐらい。
でも、理事長の念願を果たすべく
すっぽんぽんのままでやりましたよ(笑)。
そう、緞帳ができて、吊り上げ式を行ったのは、
その後ですからね。
スタッフの数はいないから
当時の記録写真がスナップしかないんですよ。
もう全てがギリギリで、劇場を開けるのに精いっぱいでした。

芸術大学の中に劇場を作るということ

──

やっと劇場が動き出しましたね。

そうやって春秋座ができきたのですが、
その後、すぐに学生集会を開いて、
理事長と芳賀学長と私と学生の質問や意見を聴く会というのを
数回持ちました。
なぜかというと、学生から
「こんなもの(劇場)を建てるなら授業料をまけろ」とか
「体育館を作ってほしい」という意見があり、
それで会を持ったんです。
その会で私は
「猿之助さんと理事長が意気投合して作ってくれたものだし、
こういうものは全国的にないんだよ。それを誇りに思って、
逆に劇場をどうやって使っていくかを考えるのはどうでしょう。
例えばファッションショーをしてもいいし、
色々な学科がここを色々な使い方で使うことができるんですよ」
という話をしました。
そして、自分たちの劇場は自分たちが守るという意識がないと
愛情が持てないから、社会貢献目的のひとつとして
フロントスタッフを学生がやることにしました。
ちょうど私が日産ミスフェアレディーの教育を
20年間やっていましたから、
私がフロントスタッフ教育をすることでスタートし、
現在にまで続いています。

春秋座はオペラと歌舞伎ができる珍しい劇場ですし、
京都芸術劇場ではアカデミックで実験的な公演と
一般の方に楽しんでもらえる公演が平行してがあります。
そういった劇場はなかなかありませんし、
大学にとっても京都にとっても大切な文化財であると思います。
これからも大切に守ってほしいですね。

京都芸術劇場ホームページに戻る