藤間勘十郎文芸シリーズ其の壱 綺譚「桜の森の満開の下」

NOTE

『美』を綴る

〝藤間勘十郎文芸シリーズ〟と銘打ちました企画の初回となります今回は、坂口安吾の傑作『桜の森の満開の下』を取り上げました。この作品は演出する者にとりまして、憧れの作品であり、初回でこの作品を上演できることを有り難く思っております。 私が「桜の森の満開の下」と聞いてまず思い浮かぶのは、中村雀右衛門さんがかつてNHKで収録された映像作品です。音楽は文楽の豊竹呂大夫さんで、雀右衛門さんの綺麗なところと、文楽の良い部分が融合した、とにかく〝美しい〟作品であったと強く印象に残っています。恐ろしい話であるのに〝美しい〟と感じる――それは書かれている言葉が綺麗であるから、怖い、グロテスクだけれどそれが「美」の世界になる。これは歌舞伎にも通ずることだと思います。陰惨な殺人が型や様式によって美しい「絵」になる。文芸作品も綺麗な文章にによって「美」になるのです。 文芸作品を芝居にするのはとても難しいことです。本は〝想像の世界〟であり、読み手それぞれにイメージがあります。それを生の役者が演ずることによってイメージを壊してしまうこともありますので、どこか抽象的に、誰が観ても想像できるように余韻を残して作ることが必要になります。 昨秋に能舞台でシンプルに上演を試みた本作ですが、今回は舞踊シーンや、歌なども入れてエンタテイメント色を濃くすると同時に、文学として物語をさらに明確に進行していこうと考えております。

演出・振付・音楽/藤間勘十郎

桜と日本人

坂口安吾の短編小説『桜の森の満開の下』は、おそろしい作品です。なにがおそろしいかと申しますと、「余韻」がおそろしいのです。 はじめてこの小説を読んだのは、今から十年以上前のことです。当時学生だった私は、登下校の電車のなかで何気なく文庫本をひらきました。短い物語です。思いがけず引き込まれ、あっと言う間に読み終えて、気がつけば作品の「余韻」のなかに呆然と取り残されていました。鮮やかな物語世界を駆け抜けた場所には、それまで見た事のない、おそろしい風景が広がっていたのです。 痺れるようなカタルシスを有する文学作品というものは、それを読む前と後とでは世界の見え方が少なからず変わってしまう、そういう力があるものと思います。『桜の森の満開の下』を読んで以来、春が巡るたび、私はふとした瞬間に桜を見上げては幽かな戦慄を憶え、肌に粟を生じるようになりました。桜の花の静けさのなかに、安吾の描いた作品の風景が見え隠れするからです。そして風に散る花を見るにつけても、儚さ故に美しく美しさ故に狂気が宿るというのは本当かもしれないな、とか、或いはそれは鬼を美しいと感ずる我々の心の不可解な働きの仕業かもしれない、などとりとめのない空想に想いを馳せるのです。桜というものの在りようは、古来より 日本人の心を動かし、我々の美意識や死生観に寄り添ってきたものなのでしょう。 このたび、『桜の森の満開の下』の上演台本を書かせていただけたのは、私にとって願ってもいない幸せなことでした。同時に、大きな挑戦でもありました。作品を改めて読んでみると、これはひとりの男とひとりの女の物語でありながら、すべての男とすべての女の物語でもあるということにも気づかされました。そして作品のもつ底はかとない奥行きのなかで、人間というものの「謎」とばったり鼻先を付き合わせてしまったような、不思議な感覚に陥ることもありました。執筆にあたっては、できるかぎり原作の文学としての言葉の力を損なわぬよう、努めたつもりでおります。本日、勘十郎さんの演出により、どのような作品世界が能舞台に立ち現れるのか、楽しみでなりません。 最後に、執筆を命じてくださった藤間勘十郎さんに、演者と関係者の方々に、そして一期一会、花咲く舞台の立会人として能楽堂においでくださいましたお客様方に御礼申し上げ、ご挨拶とかえさせていただきます。ありがとうございました。

上演台本/近衛はな