藤間勘十郎文芸シリーズ其の壱 綺譚「桜の森の満開の下」

藤間勘十郎さんインタビュー

舞踊家・藤間勘十郎の構成・演出により 日本文学に日本の古典芸能の要素を取り入れ、 エンタテイメントとして 立体的に作劇していく「藤間勘十郎文芸シリーズ」。 その第一弾として選ばれたのが 坂口安吾の短編小説『桜の森の満開の下』でした。 この企画を立ち上げることになったきっかけから 初演と再演である今回の演出内容など 勘十郎さんに興味深いお話を伺いました。

聞き手:花柳綱仁

藤間勘十郎さん プロフィール

まず始めに「藤間勘十郎の文芸シリーズ」を立ち上げた経緯はどのようなものだったのですか?

一番はやりたかったから(笑)。それにつきますね。 この家に生まれて、おかげさまで歌舞伎の振付を たくさんやらせていただくようになりました。 それはもちろん祖父の二世 藤間勘祖の力が 大きかったからなのですが、 振付の世界に入った時に 祖父が、いかにすごい演出家でもあったということを、 上の方たちから沢山、聞きました。 歌舞伎の振付というのは、振りを付けるだけではなくて 舞台の小道具、大道具、照明から衣裳、鬘、動きまで全部、 いわゆる演出をすることなんです。 演出ができなければ振付はできないということが 大前提にありましたから、 自分も演出させて頂く機会があれば、 ぜひ、やりたいなとずっと思っておりました。 僕は、おかげさまで市川海老蔵さんに引っ張っていただいて、 歌舞伎の演出を初めてさせていただいたのが29歳の時です。 それから何作か彼と一緒にやっていた一方で、 文学物が大好きでしたから、 こういう読み物をひとつ、具体的な演目にできたらいいな という思いがありました。 そこにちょうどこの企画を頂きまして、 上演する運びになりました。 歌舞伎以外で初めて演出で参加させて頂いたのが2008年、 中村芝雀さんがご自分の公演で、八百比久尼(やおびくに)伝説を題材にした『人魚の恋椿』を 一人芝居なさった時です。 そこで色々なことを学んだのですが  歌舞伎の方がなさった一人芝居なので、 「歌舞伎」と「舞踊」の融合という感じで作りまして、 それが自分の演出カラ―になればと思っておりました。 歌舞伎は歌舞伎のカラ―にすることが一番の演出ですから。 どんなに斬新な色を入れても、 やはり歌舞伎のカラ―になることが大事ということを、 演出する上で僕は一番心がけています。 ですから大胆なことをしても、 どこか歌舞伎に収まるということを一番に考えています。 でも、こういう文芸シリーズはそれだけではないので、 現在、色々と勉強中です(笑)。

その文芸シリーズの第一弾として坂口安吾の 短編小説『桜の森の満開の下』(以下『桜の森』)を選ばれた理由はいかがなものだったのですか?

好きだからですね(笑)。 昔から文芸を親しんできた中で… 何かを一つ読むと、こういうものも読みたいとか、 本屋に行って「面白そう」と思って 次の本を引っ張ってきたりするわけです。

この「桜の森」の脚本を書いた近衛はなさんは、 幼稚園から同級生で、 一緒に色々なものをやっているのですが、 今まで彼女に2本書いてもらっていて、 1本目は『玉藻前』の踊りで、 2本目は『春琴抄』なのですが、 「いつか『桜の森』ができたらいいね」 という話が出たことがあって。 2人ともこの作品が好きだったものですから。 それから以前『桜の森』を中村雀右衛門さんが NHKでなさったことがあったんですね。 母が振付で入っていまして、僕もそれを覚えていて。 この話は、内容的にはすさまじく残酷な内容だけれども、 読んでいる時はさほどそれを感じないというか 最後までサラっと読んでしまう。 でも、何がすごいって  いわゆる「生首」という気持ち悪いものと 「桜」という綺麗なものを合体させて、 何となく浄化しちゃっている。 読み終わった後、「あぁ~!」というのじゃなくて 「あぁ……(ため息)」というような、 腑に落ちるような、落ちないような 不思議な感覚になる作品だったものですから。 これはいつか、舞台化できたらいいなと 思っていました。 ですから最初にやるなら、まずはこれをやってみたい! と思っていました。

『玉藻前(たまものまえ)』も『春琴抄』も、この『桜の森』も、 怖い女のエロティシズムという所で繋がる点があるのかな、と思うのですが。 そういう所を作る上でも意識されたりしますか?

確かにどちらも怖い話、気持ち悪くて 何とも言えない話なんですけれども、 そういう気持ち悪い部分を 絶対的に出さないで作りたいとは思いました。 女の役をぼたんさんがやってくれますが そういう嫌な部分を舞踊的な表現や所作など古典の部分で 削いでみようかなと。 鶴屋南北の作品、例えば『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』でもそうですが、 すごくエロティックな場面だけど、 そういう風に見せないように綺麗に演出していたり 逆に『四谷怪談』みたいに顔は怖いんだけれど、 心根が綺麗だという部分を十分に出すとか。 そういうところがあると思うんですよね。 ですから今度は歌舞伎的な演出で考えて、 おどろおどろしい所は 様式として処理していこうかなと考えています。 そういうところが出すぎず、 生々しくならないということを 常にこの作品では心がけていますね。

初演は能舞台で上演されたそうですが、どういうスタイルで演出をなさったのでしょうか。

父が能楽師(梅若玄祥)なものですから、 能舞台の空間には子供の頃から慣れているというか。 でも、ある意味、能舞台というのは 一つの結界の中の地ですからね。 演劇をやるのには、正直、やりづらいんです。 中島敦の短編小説『山月記』を昔、 中村京蔵さんがなさった時に 演出の方がいらして、僕は振付で入ったのですが、 そこで初めて能舞台で演劇をやったんです。 その時、能舞台というのは 従来の作り方でやることは難しいんだなと思いました。 まず、正面がどこだかわからない。 父に「正面が難しいねぇ」なんてことを言っておりましたら、 「正面は将軍がいるから目の前なんだけれど、 能っていうのは別に真直ぐ向いて やるものじゃないんだ」って言われて。 なるほど、確かに色々な向きでやることが多い。 つまりアリーナなんかで演出する時もそうですよね。 正面を決めちゃうと他の席の人が何も見えなくなっちゃう。 お芝居を回りから観る、 そういうお芝居に近いのかな。と思っています。

ただ不思議なもので、 今も言ったように能舞台でやろうと思うと 生々しいものを排除したくなるんです。 例えば「生首を持ってきて」とは言えなくなってくる。 ホールだったら、それでも合うのかもしれないけれど、 能舞台に立った時には合わなくなる。 そういった意味で、あの空間だから初演は、 かなり助かった部分があるんですよね。 それは今でも感じます。

※初演時上演写真(2014年11月)

初演は3人編成の上演でしたね。 今回は人数も増えて、劇場も能舞台から花道のある歌舞伎スタイルの春秋座での上演となりますが、 空間の変化などに合わせて演出や内容は変ったりするのでしょか。

稽古はこれからなのですが、 もちろん同じことはできませんし、 変えなくてはいけないところもあります。 ぼたんさん、中川さん、いいむろさん3人の形が 好評につきの再演ということがありますので、 お客様が観た時に「なんだ全然違う作品だ」 と思われたら困っちゃう。 ですから、初演の雰囲気がどこかに残っていないと いけないかなと思っています。 今回は初演で抽象的だった部分、 現代人として『桜の森』を読む というところから始めるというのが、 一つのポイントになるかと思うんですね。 物語の世界に入っていくことによって始まる。 今度は新たなお二人に入っていただくのですが 山本さんに、お客様の目線になってもらう、ということが一つ。 それからこの作品では「桜」がとても重要となりますが 能舞台だと造り物ですんだのですが、 今回はそれだけでは…と思うので、 花園さんに桜の精のようなところを担っていただきつつ、 お二人が物語に導入していくことによって 始まる3人の芝居っていうことにしてみようかなと 思っております。

桜の精は男性なんですね。 能でもお爺さんが桜の精ということもありすが、今回は、どういうイメージで男性にしようと? 桜というと普通は女性的なイメージを受ける人の方が多いと思いますが。

そうですね。確かに桜といえば女性のイメージがありますね。 ただ、僕らなんかですと能のイメージが強いものですから。 男でもいい、女でもいい、 性別をあまり意識しない形にしようかなと思います。 そこに捕らわれてしまうと 観る人が、そう見てしまうことがある。難しいですね。 ある意味、日本舞踊でいう素踊り的表現だと思いますね。 素踊りというのは、男も女も紋付き袴で踊りますよね。 ですから役者が舞台に出てきた段階では、 ただのおじさん、ただのお兄ちゃんに見える。 それが踊っていくうちに「あ、女なのかな」と 観ている人が思う瞬間、これが一番重要なんですよね。 そこへ持っていければ面白いかなと思っています。

初演の三人は、どういう風に配役されたのですか?

まず、本の中で一番重要な役は、女の人だと思っています。 初演は能舞台ということもありましたし、 所作がきちんとした人でないと正直、着物を着たお芝居は、 にっちもさっちもいかない部分があると思いました。 でも、着物が着られたらいいのか、 似合えばいいのか、というわけではない。 僕は、ぼたんさんとも幼稚園から同級生なんです。 彼女は舞踊家とはちょっと違う、 いわゆる成田屋の血が、団十郎家の血が しっかりと入っていらっしゃる。 一緒に舞台をさせていただいていても、 「あっ」と思う、 「何か違うものがあるな」と思う瞬間が沢山あるんですね。 彼女なら、この役が出来るのではないか 似合うのではないかなと思ってお願いしました。 その彼女――異様な人を見るのは、 彼女と真反対の人、和事に縁のない世界の方のほうが面白いということで中川さんを御紹介頂きました。 中川さんはミュージカルなどをなさっている人なので、 面白いのではないかと思いました。 彼は山賊みたいな役なんですが、 山賊って別に汚い格好の必要はないでしょ? 歌舞伎でいう斧定九郎でいいんですよね。 元々、山賊だった男がスッキリとしたという。 要はいい男でいいんですよ。 良い男の山賊がいてもいいんじゃないかなと思って。 逆にそっちの方が見栄(みば)がいいし。 美女と野獣みたいになるのも面白いけれど、 美男美女という感じも、すごく良いと思いまして。 それから、この作品には色々な女性が出てきますが それらを全部出してしまうとリアルになっちゃう。 でも、やはり必要なところは一杯あるし…。 そこで何でも出来る人はいないだろうかと考えて。 男でも女でも、動物でも何でも出来る人ということで いいむろさんしか思いつかなかったんです。 彼はマイムの人だけれど、 彼だったらなんでもやってくれるかなと。ピエロ的なね。 だから道化的な衣裳なんです。 この人が生首を持っていても 気持ち悪くならないんじゃないかなと思ったんですね。 滑稽に見えたらいいなと。 江戸川乱歩とかでピエロが 生首を持っているシーンとかあるけれど、怖い。 一種、気持ち悪さもあるけれど、生首がバーンと出るよりも、 何か違う嫌悪感を持つと思うんですよね。 そういう意味で、こういう道化的な存在で出てくれたら いいんじゃないかなと思って三方になりました。 歌舞伎もそうですけれど、 振り付けする時は、その人の良い所に光を当てます。 この人は動かない方がいいなと思ったら動かさない。 走り回った方がいいなと思ったら、走ってもらう。 手数が多い方がいいなと思ったら、多くする。 という風に振り付けをするんですが、 今回は、「ぼたんさんは踊らないでください」 「中川さんは歌わないでください」 「いいむろさんセリフ言ってください」 と言う風に各々、大好きなことを封印して頂きました。 縛ると言う事で何か観えないかなと思って。 中川さんには能の謡をやって頂きました。 朗々と歌うことが能舞台に合わないんですよ。 あの空間で洋楽が流れて歌うよりも感情を押し殺し、言葉をハッキリ伝えたことが、良かったと思います。 ただ今回は、枷を外したら、もっと面白くなるかなと思っているんですね。 ですから、中川さんには歌ってもらいたいし、 踊ってもらいたいし、 いいむろさんもセリフを言わなくていいのなら 言わなくていいと思っています。

視覚的な演出としては、どのようなことを計画されてるんですか?

今、考えているのは、 舞台の上に舞台を作ってみようかなと思っているんです。 通常は客席、舞台と2つの隔たりがあるのですが、 もうひとつ隔たりを加えて三層にするということを 今回、序幕でやってみようかなと。 いわゆる現代の観客が観る目線、 それから山本さんがいる現代の部分、 本の中の部分、その3点を きっちり最初に見せたいなと思っています。 それがだんだんと破壊されていく。 主人公の男・山賊の精神的破壊であったり、 しとやかな女の部分からパッと変る女性の二面性や 空間が壊れた時に何が起きるかということを メインに考えてみようかなと。 観客、現代、本の中とハッキリ分けた中から、 壁がぽろっと崩れて、バババババッて取れた時に、 最後、本当に全員がふわ~となっちゃう。 そして誰も居なくなるっていう。 本も衝撃的な終わり方でしょ? 僕らも本を読んでいて「あれは現実だったのかな?」 「夢だったのかな」って、 もう一回、最初の方から読み直しちゃうような、 最初、そんな感じじゃなかったのに何だったんだろうって。 「誰かの夢物語だったのかな」 「いや、そうは書いてないし」って。 その衝撃的なお終いのところが 僕も近衛はなさんも一番好きな部分だし、 ひっかかった部分でもあるんです。 でも正直、演出する時に大変だった部分でもあります。

お能とか日本舞踊とかもそうですが最後、何もなくなった空間で終わるというのは、 日本の伝統芸能の舞台には、ある種、美意識としてあるような気がしますが、いかがですか?

確かにそうですね。 僕ね、お能で全部終わったあと、全員ひっこむでしょ? あれが好きなんです。 何事もなかったように誰もいなくなった後に、 拍手をするっていう。 あれは独特の演出じゃないですか。 お能で「イヤー!」って太鼓や鼓がかけ声かけて終わっても 拍手しないという暗黙のルールがありますよね。 誰もいなくなって初めて拍手をするっていう。 あれがね、好きなんです。 舞台の充実感が少し前まであったんだけれど、 突然パンっていなくなると空っぽになった気になっちゃう。 あの感覚って大事だなって思うんです。 それは逆にホールでは難しい。 あれは能舞台でやるから成り立つ演出で、 ホールでやるにはかなり工夫がいるんですよね。 なんともいえない気持ちにさせる…。 ぽっといなくなって「あ、終わったんだ」っていう。 祖父も「手を叩く間を失うっていうことも大事なんだ」って 言っていました。 歌舞伎なんかでは、手をたたく盛り上がり場を 一つの演出の場として僕らは作るんですよね。 今回は、ぐーっと観て「あ、終わった…」って 感覚にさせるようなものを ホールならではの方法でやりたいですね。 お客さんが作品に取り残されたような、 「あれ…あ、休憩だ」とかっていうようにしたい。 3月に横浜で『土蜘蛛』の舞踊公演をしていたのですが、 客席に向かってクモの糸を投げたんです。 観客が全員クモの糸まみれになって観るという(笑)。 「あ、ここからもクモの糸が出てきた」 「あ、クモの糸がかかっちゃった!」って 結構、皆さん喜んでくださるんですよね。不思議と。 そうすると体験型になるんです。 最初は客席と舞台が別だったのに、 いつの間にか、本の中の世界に入っちゃって、 終わった時にふとみると「あ、劇場だったんだ」って。 そういう感覚にどうしてもしたいの。 お客様には、ぐーっと前に入っていただいて、 そのことで後ろが閉鎖されちゃうような 雰囲気になればいいなと思います。 この本は正直とても難しい作品で、 甘くないから、そういうのが紙一重なんです。 それは上演時間も含めて。 人が集中できる範囲内で満足して帰っていただく。 長ければいいってもんじゃないけれど、 かといって短くてもいいもんではない。 この絶妙なところで納めてやっていく。 だから、今回は「宝塚」なんですね。 序幕はお芝居で二幕目はレビューなんです。 除幕はコンコンと芝居を見せる。 ストーリー展開を観せて、下幕はがらっと変わって 様式美でどんどん型をつけてパン!と終わる。 宝塚も序幕は集中してみて 「あ、終わっちゃったんだ」ってなるでしょ。そういう感じ。 その付属品として、物語をもっと分かりやすくすることと、 今度はホールなのでお客様がお腹一杯になって帰る という部分がないといけないんじゃないかなと思うんです。 それはこれから出演者5人と相談。みんな何がしたい? 何ができるって。

最後に、今後の展開はいかがですか?

最近、何となく自分のカラ―が 決まってきた感じがあるんですね。 例えば勘十郎が演出すると歌舞伎調になるだろう、 舞踊家だろうが歌舞伎役者だろうが 演劇の人だろうが、使う音楽は必ず邦楽ですとかね。 基本的には着物のものしかやりませんが 逆に洋服のものの演出をしたとしても 音楽は邦楽ですっていう、 そういった自分の色を しっかり打ち出していきたいなと思います。 こういう作品が続くと 同じ雰囲気になっていっちゃう気がするんです。 僕も凝り性なので、次もまた同じ物になってしまうのも嫌ですから、今度は逆に昔のものを現代の形でやってみるとか、 着物を着たことがない人達でやってみるとか。 また、現代のものを今回のようなメンバーでやってみるとか。 そういう違いでやれたらいいなと思います。

今回の第一弾の作品も楽しみですし、併せて今後の展開も目が離せませんね。