京都芸術劇場15周年 さらなる実験と冒険へ

Vol.4 京都芸術劇場15周年特別企画「芸を受け継ぐこと、次世代へ繋げること」
太鼓芸能集団 鼓童 船橋裕一郎さん×琉球芸能 嘉数道彦さん

佐渡島を拠点にする
太鼓芸能集団 鼓童の代表・船橋裕一郎さん(左)
沖縄で琉球の伝統芸能の伝承と普及をめざす
国立劇場おきなわの芸術監督・嘉数道彦さん(右)。
それぞれの舞台の歴史やその長さは異なりますが、
今、この立場となり、芸を受け継ぐこと、
次世代へ繋げることについて
改めてお話しをしてもらいました。

沖縄と佐渡島の出会い

船橋

嘉数さんと出会ってから、もう10年になりますね。

嘉数

そうですね。

船橋

僕たちは鼓童の研修生の時、
琉球舞踊を習うのですが、その先生が沖縄のご出身で、
沖縄県立芸術大学(以下、沖縄芸大)で教えておられる
佐藤太圭子先生に師事されていたんですね。

嘉数

そうそう、沖縄芸大学の先生で
教授として琉球舞踊は佐藤太圭子先生、
組踊は宮城能鳳先生(人間国宝)が筆頭なんですよね。

船橋

その後、2005年にまた沖縄で公演する時にも
佐藤先生にいろいろとお力を貸していただいて。
その時、琉球舞踊の方々と共演という形で
公演をさせていただきましたね。

嘉数

そう、僕は一番の若手でしたね。

船橋

だから、みんな嘉数さんのことを
ミッチーって呼んでいて(笑)。

嘉数

夜な夜なね、一緒に(笑)。

船橋

そう、夜な夜な飲みましたね(笑)。
そんな出会いだったから、僕ら嘉数さんが
国立劇場おきなわの芸術監督になったって
聞いた時、「ミッチーが芸術監督になってるよ!」って
びっくりしました。

2005年、国立劇場おきなわにて行われた「島結び」公演にて

嘉数

でも、あの時は毎晩、朝まで飲みましたね。

船橋

リハーサルが佐藤先生のお宅であって、
それが終わっzて今から飲もうかっていうと、
すっかり夜中でしたもんね。

嘉数

沖縄はスタートが遅いんですよ(笑)。
でも、その時の共演は濃かったですね。

船橋

そうですね。その後(2007年)に
僕らの本拠地である佐渡島で
毎年夏に開催している野外フェスティバル
アース・セレブレーションに
佐藤先生や琉球舞踊の方々をお招きして、
「海の道」というタイトルで共演したんですね。
そして、その時も飲みましたね(笑)。

2007年アース・セレブレーション「海の道」 Photo:田中文太郎

嘉数

アハハ。そうそう。
佐渡でも朝まで(笑)

船橋

面白かったですね。
客席から突然、嘉数さんと組踊の阿嘉修先生が
おじいちゃんとおばあちゃんに扮して登場してお芝居を始めて。

撮影:田中文太郎

嘉数

まさか、あれを佐渡でやるとは。しかもあれだけの人数の前で。

船橋

2000人の前ですからね。

嘉数

あれは舞踊というか、お芝居に近く、
即興的なおしゃべりと踊りを組み合わせたものですね。
でも、まさか佐渡でこれをやるとは思っていなくて!
しかも、あんな大きな野外のステージでね。
お客さんも国内から海外の方まで。

撮影:田中文太郎

船橋

会場にいらしてから驚いてましたね(笑)。
「本当に、ここでやるんですか!!!」って。

嘉数

でも、鼓童のみなさんは温かいんですよね。
沖縄でも佐渡でも大変ご迷惑だったかなと思うんですけれど、
「飲みましょう」と言ったら来てくださるんですよ(笑)。
僕らも、いろんな方と共演させていただきますけれど、
別れが惜しくて泪を流したのは、鼓童さんだけですね。
沖縄公演を終え皆さんが帰る時、
寂しくて居酒屋の前で泣いたのを覚えています。
まあ、酔っぱらっているんですけれどね。アハハ。

佐渡公演では私たちが帰る日も朝まで飲ませたのに、
みなさん車や自転車で港に見送りに来てくれてね。
本当にドラマみたいで、
人間が温かいんだなって、とても感動しました。
その後、共演はなかったですけれど
互いに坂東玉三郎さんとの繋がりがありましたもんね。

坂東玉三郎から学んだもの

船橋

そうですよね。
玉三郎さんで、また繋がるというのはびっくりですよね。

嘉数

そうですよね。僕らと共演した時、玉三郎さんとの繋がりは?

船橋

鼓童の芸術監督ではなかったですが、
すでに佐渡にはいらっしゃってましたね。

嘉数

僕らは、まさか玉三郎さんと一緒に
同じ舞台に立つとは思いませんでした。
(2013年3月 芸能史上初の試みとして、歌舞伎女方人間国宝の坂東玉三郎が、
新作組踊『聞得大君誕生』を国立劇場おきなわで上演)
いくら新作の組踊といえ、沖縄の人にとって組踊というのは
基本的に組踊を演じる人が演ずるものという観念があるので、
外の世界の方が演じるということは本当に稀なことで。
沖縄としては一大事件だったんです。

とても衝撃だったのは
お稽古の時、私たちが今まで全く疑問とすらしなかったことに
玉三郎さんが、問を投げて来られるんですね。

だから玉三郎さんに「なぜ、こうなの?」と問われた時に
理由が言えないんです。
なぜか分からないけれど、
こうなんだと自然と思っていたからでしょうね。

船橋

僕らも全く一緒でした。

嘉数

そうですか。

船橋

「これは何で、こういう叩き方でしなくちゃいけないの?」
「何でこのバチでなくてはいけないの?」って。

嘉数

あー。

船橋

そこからなんです。
でも、「そういうもんだから」としか言えない自分たちがいて。
だから、じゃあ、別のバチを使ってみてもいいかという気分になって
「一回やってみます」と、やってみると新たな発見があったんです。
それは外部の人が入ってきた大きな点でしたね。

嘉数

まさに一緒です。
僕らは「なぜ、こう立つの?」とかからですね。
沖縄の場合、女踊りの立ち方というのは、
足を開いて八の字に立つんです。
でも、歌舞伎はどちらかというと内に閉める。逆の八の字に立ちます。
ですが誰も、なぜって考えたことが正直ありませんでしたし、
こうお習いしてきたから、こう立ってきたというのが本音ですね。

ですから「なぜなの?」と尋ねられた時、ハッとなったけれど
誰も答えられなかったんです。
とにかく、そんな風に投げ掛ける問いが非常に多いんです。
それは日常的な会話の中など、
何気ないやりとりの中でもあって、
「ん?なんだろう」って
「?」が出てきたりするシーンが色々ありました。

でも、だからと言って玉三郎さんは、
違和感があるから、私が演出だから
こうしなさいってことはおっしゃらないんです。
それに対して答えを示し、
指示を出すわけではなく、
種を蒔いていかれるような感じですね。
それを気が付かせてもらえたのが大きく、
私たちが玉三郎さんから得たものだと思います。

船橋

それは、よく分かります。
僕たちも今、ドラムや西洋の楽器も
舞台に取り入れたりするんですが、
それまで、そういった楽器は
強いて取り入れなかったんですね。
でも、「何で取り入れないの?」という問いに答えられなくて。
だからちょっと抵抗はあるけれど、やってみる。
すると結構いいものが生まれたり、
実は響きが増したりするんですね。
だから結局、良いものを作りたいという一点なんですね。

Photo:Takashi Okamoto

嘉数

そうなんですね。

船橋

ですから東洋の楽器であろうと、西洋の楽器であろうと、
今、この時点で気持ちが良い音が作られたら
いいんじゃないかというマインドに、
僕らも変わってきたんです。

嘉数

僕らがご一緒したのは新作でしたけれど
やはり、それ以来、古典的なものをやる時も、
出演したみなさんの中で何かが違うのが分かりますし、
舞台に対する姿勢という面でも変わりましたね。

最初に共演した翌年、南座でご一緒させていただいたのですが
南座に立つというのは、
これも沖縄芸能界にとって始まって以来の一大事で。

沖縄での組踊公演は長くて2日、
通常は1回公演で
がんばって3回公演があるかないかですね。
それが、あの南座で8日間興行できたというのは、
先輩方にも胸を張れるような、誇らしさを感じました。

また、毎日、毎日、同じ演目で舞台に立つというのも新鮮で。
玉三郎さんも毎日出演されるのですが、
舞台の上で毎日、違うものを見せてくださるんですね。
コピーというかパターン的にやらないというか
何かを自分の中で持っていらして

間であったり、細かい演技であったり、
必ず何かが変わり、常に進化していく。
それを間近に感じることができたのは、
出演者にとって大きな学びだったのではないかと思います。
沖縄に帰ってきたら、1回、2回公演に戻るのですが、
その1回の舞台にかける思いというのが変わった気がします。

船橋

僕らも普段は、1箇所1公演が多くて
毎回、同じものを舞台でやります。
でも日々、指摘が入って、ちょっとずつ変わってく、
その指摘が何回やっても途切れないんですよね。

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